人は決して自分のフィルターを手放しません
自分が外を見るとき 必ず自分のフィルターを通して見ています。
目とか口など すべて自分の感覚をフィルターにして対象を把握し 理解しています。
家人と同じように庭を見ているつもりなのに 「吾亦紅が芽吹いたね」と いわれて初めて気づきます。
同じ風景を見ても目に入らないと同じような体験はしばしばあります。
知人の訃報を聞いて何を思うか。
それも人それぞれで 同じ受けとめ方ではありません。
私はお坊さんになってお葬式の現場に立つことを重ねているうち フィルターが曇ってくるように感じていました。
遺族の悲しみを深く思うのではなく 仏教という建前で向き合うことが多くなっていたように思います。
その人との出会いも別れも一生に一度のことで 悲しみは一人一人違います。
お別れの現場の参加者お一人お一人に深く共感することで はじめて人生の真実に気づくことができるのでしょう。
今ではすこしだけそう思いながらお参りしています。