悪人が救いのめあて?
昨日 一年に12回同じことばに出会う「日めくり」カレンダーをめくりました。
そこには「悪人こそ救いのめあて 私こそ救いのめあて」と書かれていました。
2年以上も使っている「日めくり」ですから 30回くらいは目にしたはずのことばです。
ところが昨日目にしたとき 「私こそ救いのめあて」だけで十分だと気づいたのです。
「悪人こそ救いのめあて」ということばを無用と感じたのです。
「悪人正機」ということばは 浄土真宗という仏教の中心になる用語であることに異論はありません。
その教えを自分のこととして受け取り 「私一人が救いのめて」というつながりが書かれているのです。
間違いというのではなく 「悪人」という解説が必要となることばの出し方が 教えを受け取る邪魔をしているからです。
がんばっている私 悪人ではないと思っている人に このことばは理解できても響きません。