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過疎四苦八苦
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仏教に求めるものは

過疎四苦八苦

仏教に求めるものは



この何日かのうち私が見たテレビで 仏教の話が数回続きました。

すべて瞑想の話題でした。

新型コロナウイルス騒動をどう乗り切ればいいかというところで 瞑想によって方向を見つけようという趣旨でした。

外国の人たちに禅僧の方が 瞑想する意味について解説されていて興味深く観ました。

私も仏教を学びましたが瞑想について学んだことはありませんでした。

ほぼすべてといってもいいくらい 宗教には自分で行う「行」があります。

懺悔とか祈り あるいは座禅とか瞑想といった行です。

ところが私が学んでいる仏教にはそのような「行」は一切ありません。行は否定され 自分で行うことは何もないのです。

いやいや正確にいうと 話を聞くという「聴聞」という行のような行為がありますが それを「行」といっていいかどうか。

恣意的に行うことではないので まことに心細い限りであり それが果たして「行」といえるかどうかというものです。

実態の存在がない「無」とか「縁起」から届いている必然の約束が聞こえるまで聴き続ける。そういうつかみどころがないような仏教なのです。

だから いざ困難な事態が生じたからといってあらためて何もすることはないのです。

他者に迷惑をかけないように 自分の都合による外出は控えよう。この事態は暮らし方の見直しと捉えてみよう。

あわてて何かをしなくても 「聴聞」によって そんな思いが生がまれる知恵は育つと思いますよ。