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過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

仏教に何かを求めた事業家



故ステイーブ・ジョブズさん 稲森和夫さんのお二人とも すばらしい業績を残された事業家です。

このお二人の生涯の中には つよく仏教に惹かれられたお話しがあります。

お二人とも「禅」の教えに身心を寄せて 何かを求められたようです。

それが何であるのか ご本人が語られたことばは見つかりませんが 推察はできます。

事業家は 重い責任を抱え そして孤独です。存亡に関わる決断をしなければなりません。

だれの力も借りることも出来ないことを 行わなければならないのが仕事なのです。

お二人が仏教に求められたものは 決断のひらめきだったのでしょうか。あるいは決めたことを確認するための 無心の境地だったのでしょうか。

お二人が仏教に求められたことは 間違いなく「自己の愚かさと弱さ」を学ぶことであったと思います。

「自分の身のほどに」気づいたとき 成否に関係なく 「自分が納得する行動をし 納得するものをつろう」という覚悟が生まれたのではないかと思っています。

仏教は いろいろなことを気づかせてくれますが その根元は「我欲に気づき 愚者になれ」という教えですから。



 

 

匂いの研究



匂いを研究しているプロジェクトの話を聞きました。

高齢者施設や子ども園などの匂いを嗅いで 不快と感じる匂いがあれば消そうという研究をしているのです。

まだ成果は出ていないようですが いろいろなことを実験ながらすすめられています。

地域とか施設や居宅には 特有の匂いがあります。工場地帯や牧場 あるいは港の周囲では すぐそれとわかる匂いがあります。

病院とか介護施設などで 消毒薬などの匂いを感じることもあります。中には不快感を感じる匂いもあるので それを薄めたり消す方法を考えているのです。

京都の門前町を歩いていたら とてもさわやかな香の香りがする場所がありました。看板を見たら香の専門店で お店の前で香が焚かれていたのです。

ウナギとかサンマを焼く匂いを わざと周囲に出すこともあるので 匂いは大切なものです。

昔の自動車の排気ガスの匂いが好きでした。サーキットでタイヤが焼ける匂いも好きでした。乾いた洗濯物の匂いが好きになりました。赤ちゃんの匂いがうれしかったことも思い出します。朝の味噌汁 パン屋さんの匂い・・・・。

消すことより いろいろすてきな香りがする場所をつくるという発想もありますね。


 

 

ドビンゴが死んでしまいました



昨日の夕方 スズメのひなが落ちて鳴いていました。

施設の軒下にツバメの巣がありますが その巣を借りて子育てをしていたのだと思われます。

親と思われるスズメが 軒先から下を覗いて盛んに呼びかけていましたが どうすることも出来ず鳴き続けていました。

帰宅前の数人の職員が集まって「どうしたらいいのか」と話しましたが 高い場所の巣に帰してやることはしなかったのです。

自分の無慈悲さを思いながら帰宅しました。

今朝 子スズメは死んでいました。

施設の朝礼で この出来事をおはなしました。

どうすることも出来なかったという事実から逃げないで だから仕方がないと妥協せずに 心の痛みを失わないようにしたいものだと紹介しました。

「今生に いかにいとほし 不憫とおもふとも 存知のごとくたすけがたければ この慈悲始終なし」という『歎異抄』のことばが浮かびました。


 

 

話したくなるとき



とつぜん「(まとまった話を)話したいなあ」と思うときがあります。

どんなときにそうなるのか分析するようにかんがえると 思い当たることがあります。

頭の中で新しい発見がおきているとき 本を読んで刺激をうけたとき 問題解決のヒントが浮かんでいるときなどです。

それは 誰かに話すことによって そのかんがえが固まるか 逆につまらないものと気づくからです。

これは リトマス試験紙を入れて酸性がアルカリ性かを調べるような行為に似ています。

しかしそれ以上に 人に話すことによる別の成果がおもしろいのです。

話しの中の何かについて 別の意見や質問があると そこから新しいかんがえが生まれることがあるからです。

「まとまった話をしたい」と思って話すときは 聞いた人の意見や感想 質問を受けるゆとりをもっておくことが大切です。 


 

 

独居成人



検死の結果 15日にお亡くなりになっていたという男性のお葬式にお参りしました。

発見されたのは2日後の朝だったそうです。

お風呂から出て 着替えを済ませたのちに風呂場でお亡くなりになったようです。

過疎地では 独居老人の安否確認は気をつけていますが 独居老人の対象にならない人に対してはとくに強く意識していません。

周囲の人たが 独居老人として意識する前の独居成人も増えています。

その人たちのことを「独居成人」と位置づけして安否確認をしなければならない環境になってきているようです。

まずは「独居成人」ということばから始めましょう。


 

 

山菜の季節到来



夕方家内に頼まれていた「フキ」を採りにでかけたら 「ワラビ」と「クレソン」が目にとまりました。

さっそく山菜料理の準備が始まっていますので 明日の食卓にでてくるはずです。

夕食をたべているとき お世話になっているお方が 「ハナウドとタラの芽を てんぷらにしませんか」といって持参してくださいました。

先日いただいたのは タケノコとコゴミ。
いま山菜の真っ盛りです。

都会で暮らしている人たちに このような暮らしはどのように見えるのでしょうか。

私たちにはとくに珍しくもない暮らしですが 都会の人にとってはちょっとうらやましい暮らしに見えるのではないかと想像しました。

同じようなものを食べようとしたら 市場で買うか あるいは休日に乗り物に乗って山に行かなければなりません。

「そんなものを食べる必要はありません」と思えばその通りですから 得意になったり残念に思うことは無用です。

でも 自然という不思議なものと直に向き合う体験は さまざまなことを考える大切なことと思うのです。


 

 

生き方をかんがえる角度



「過疎地でどう暮らしたらいいのだろう」という生き方の答えを けっこう真剣にかんがえています。

そしてそれは 「人生をかんがえる角度によって変わる」のではないかというかんがえで固まりつつあります。その角度のことを キーワードといいうこともできます。

過疎というというのは 社会全体から見た一時の現象で 人口密度の過密と過疎 近代化の進化と停滞または荒廃 あるいは利便性の多寡という現象に過ぎません。

さらにいえば いまの過疎地が突然過密地に変貌し 過密地の都市が過疎化する現象だってあるのです。

その中での暮らしをしている人々は その「現象から逃げだしたい」とか「仕方がない」と 自分のかんがえで現実を見て行動するわけです。

そのときに 「かならず老病死がやって来る」という真実を基盤にしてかんがえる人は少ないと思います。目先のことを中心にかんがえるからです。

文化や娯楽など身近に手に入る楽しみ 農作業などの自分の身近な範囲で手に入れる楽しみなど 健康とか老化をかんがえながら選ぶという角度があります。

同じ景色 同じ時間の中でつくったコミュニティーと 個々がバラバラに暮らす希薄なコミュニティーの中で迎える死からかんがえる角度もあります。

「健康」「仕事」「利便性」あるいは「コミュニティー」というキーワードがありますが その中に 一切のことは思い通りにならないという「宗教」からの角度も必要ではないかと思います。


 

 

本人確認の方法は何種類ある?



本願寺へ送金するために郵便局に行きました。

日常利用している郵便局で 局長さんも局員さんも全員顔見知りです。

とはいっても 決まり通りに本人確認をされますので 手許にあった健康保険証をもっていきました。

それを提示したのですが 本人確認にはならないといわれ 運転免許証を要求されました。顔写真が必要なのだそうです。

顔を見て本人確認をするという念の入れ方ですが 運転免許証をもっていない人は何を提示したら本人の証明ができるのでしょうか。

身近にあって顔写真がある公的な所持品は パスポートくらいしかないと思います。

それももたない人は どうしたらいいのでしょうか。

犯罪防止のための手続きと思いますが 面倒な社会になっています。


 

 

牡丹の花をいただきました



きのう自宅で育てておられる牡丹の花をきって 施設にもってきていただきました。

濃いピンクの色があざやかな 大きな花を三本いただきました。

さっそく玄関に活けてもらうと 一瞬にしてホールが華やぎました。

出入りする人の中には 思わず歓声をあげる人もおられ 楽しんでいただいています。

「お花をください」とお願いしているわけではありませんが 自発的にそうしてくださる人がおられるのです。

丹精をこめて育てられたはずの花を 他人のために惜しげもなくきってくださる思いを すがすがしく感じています。

自然にこのような行動をしている集まりを コミュニティーというのでしょう。


 

 

「共感する」とはどういうこと



家族や身近なお方が病気になって難儀をしておられる様子を見ることが増えました。

周囲の人たちが次第に高齢化していることが原因で どうすることもできません。

患っておられるご本人やそのご家族の状況を想像することが 共感の始まりだと思っています。

「いたい」とか「しんどい」 あるいは「不安でたまらない」ということばを耳にしたとき 「そうだろうなあ」と感じたら それは共感することです。

自分自身が同じ病を患って体験したことなら そのことばにはつよく共感できると思いますが そうでないときは ことばになって現れた現実に耳を傾けることで共感できます。

同じいたみは体験はできないけれども つらさとか苦しさ不安は感じることができるからです。

そして その人にたいして共感することばが生まれるのです。