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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

それは自分と無関係なことなのだろうか



子どもが親に虐待されて亡くなったという痛ましい事件から いろいろな展開が始まっています。

子と親の関係では 親がすべてのことで力をもっていますから 親の責任は重いといって逮捕されました。

子どもに出来たわずかな逃げ道である 学校や公的機関への訴えも そこで行われた判断と対策が問題だったという事実も現れました。

さらに最近になって 「親は子の躾をする権利を持っている」という法律にも問題があるという話に展開しています。

この法律問題はしばらく議論が続くと思いますが 次にはどんな展開をするのでしょうか。

関係がありそうなモノにひろがるだけ拡がって やがて話題から消えていくことになります。

直接間接を問わず あらためたらいいことはあらためなくてはならないでしょうが 自分には無関係なことなのか問うクセも始めて欲しいと思います。

大人も子どもも 「人間は思い通りにはならない」ということに気づくことが必要です。

それは宗教の役割と思いますが そのことに気づいていただくことが出来ていなかったことが根底にあると感じます。

今回の事件から 「思い通りにはならないが 子どもは親を見て 大人は周囲を見て育っている」という縁起観を思いました。


 

 

「地域」ということについて考えました



介護施設で発行している「施設報」の編集者から原稿を依頼されました。

今回は紙面全体のテーマが「地域」ということらしく 地域のことを書いて欲しいといわれました。

編集者の意図を確認して 「地域の定義」のようなことを書いてみました。

私は「地域」とは場所や面積ではないと捉えています。固定化されているような場所や面積のようなものでなく 自分と関わりがある空間を地域と感じているのです。

ときには狭く ときには石見地方とか島根県という広い空間を地域として感じることもあります。

出会う人とあいさつが出来て 何かがおこれば一緒に心配したりよろこぶことが出来る空間を地域と考えているのです。

自分が関心をもたれていると感じるいう空間。孤独を感じない空間のことを地域と思っているのです。 


 

 

気持ちの納め方




「生きることは何一つ思うようにならない」という真実は お釈迦様が明言されたものです。

仏教を学ぶと それを「煩悩」という表現で 解消方法についても教えていただきます。

方法について教わり 多少の修行をしても 教えらえた通りに解消出来るかというと 簡単ではありません。

心の中は煩悩が詰まっていて まるで闇です。また実行の決意をしても 完遂するには身心があまりにももろすぎます。

私たちに出来ることの一つに 煩悩とつきあってもらう人を見つけることがあります。

その人が身内や親しい友人であれば あまりにも自分寄りなので 煩悩を増幅してしまうことがあります。

中立でありながら 賢くそしてあたたかくつきあってくださる人として思いつくのは やはりお坊さんだと思います。

ところがお坊さんには 布教という建前があります。

だから「自業自得ですよ」とか「あなたが変わることしかありません」といって 教えを話すことに終始して 突き放されたように感じることもあります。

解決できないかも知れないが 「つきあうことはさせてください」といえるお坊さんになりたいと 少し思うようになっています。


 

 

丁寧に生きる



いつごろからか思い出せないのですが この2~3年くらい前からだと思います。

丁寧に暮らしたいという思いが生まれてきて その話を何度もするようになりました。

どうしてそんな思いになったのか その原因はわかります。

それは仏教と関係があって 「かならず死ぬ」人生だから いまをどう生きることが大切か あらためて考えたからです。

お坊さんとして仏教を勉強し そのお話をしているのですが 教養の話に終わって自分のことになっていないところがありました。

自分のこととして考え始めたら 途端にいまの生き方に目が向き始めました。

ゲーム感覚で 「今夜で人生が終わる」と 少し真剣に思ったら 「今日一日 どう生きたらいいのだろう」と考えるはずです。

考えて何かしようと思っても 間に合わないことばかりだと気づきます。そして「せめて今日一日だけでも大切に丁寧に生きよう」となるはずです。

私はそう思うようになったのです。

丁寧に生きる」生き方とはどうすることなのか。 「顔を見て話を聞く」「お礼をいう」「いまのことを手を抜かない」「本音をいう」「相手の気持ちを考える」という生き方です。

手抜きをせず丁寧に生きると 楽しい暮らしが生まれます。


 

 

過疎地の追っかけ人



過疎になることは そこに暮らす人が減ることです。

人が減ると多様性は減りますが 丁寧に見るとおもしろい人はたくさんおられます。

先日その一人とお目にかかり お話を聞くことが出来ました。

その方は「石見神楽の追っかけ人」です。会社勤めを終えて 60歳を過ぎた奥さんもおられる男性です。

アイドルや歌手を追っかける若者や 役者を追っかける有閑夫人のことは話題になりますが 人ではなく「神楽」という伝統芸能を追っかける人は珍しいと思います。

その方のお話では 県内や広島県の人で20人くらいの人と顔見知りになっているといわれますので けっこう追っかける人がおられるようです。

今では神楽舞はアトラクションとして 季節を問わず演じられるようになっています。

その方は ほぼ毎週のように出かけておられるようで 年間では100日を超えると聞いて驚きです。

伝統芸能が盛んな石見地方ならではの楽しみ方として ニッチな娯楽ですが リッチな暮らし方と感じました。


 

 

メモる癖



メモる癖はいいことだと思います。

いろんな情報を耳にすると すぐメモしているうちにすっかり習慣になってしまいました。

一時は車を運転しながらでも ラジオやCDからの情報をメモっていたときもありました。それは止めましたが いまでもメモることは続けています。

しかしその量はずいぶん減っています。

原因は 自分に出来ることを自覚するようになり 話題の内容を選別するようになったからです。

知識としての情報を集めることは無用と気づいたのです。次々に生まれている情報を知らないと 仲間はずれになる恐れが消えのです。

必要な情報は 自分の身の丈に絞られるようになり 関心を向ける巾が減りました。

そのことと入れ替わるように 一つのことへの関心は深まっています。それの情報を耳にしてメモることは 衰えてはいません。

いままで実行して身につけたメモる癖が 毎日を楽しくしてくれてるのです。


 

 

何もない一日



何も予定がない一日だったので 何もしないで過ごすことにしました。

何もしないといいながら 倉本作品の「風のガーデン」の3回目を見て ときどき ほんの少し考えごとをしました。

家内も少しばかり休養が必要と思っていましたので 二人でビデオを観ることにして座っていました。

外は寒く 雨も降っていて外出する気分になれず ちょうどいい何もしない日になりました。

本当は何もしないといいながら 五感は何かをしているようでした。そうしないと落ち着かない性分のようです。

暖かい部屋の中で 誰にも干渉されずに過ごしたのですが 日常の決まった動作や 毎週決まって繰り返す行動 あるいは気になって放っていたことにも手を出していました。

ただ頭の中に 次々と異なる問題を入れたり それに応答する必要はなく 頭の中は一日ほぼ連続して緩んでいました。

どうやら 休養とは頭の中も休むことでした。


 

 

障碍物がありました



数軒の家が点在している 海沿いの集落の家にお参りしました。

近くに 最近切ったと思われる大きなハゼの木が倒されていました。

お参り先のご主人に 「どなたが切られたのですか?」とたずねたら 「隣のSさんです」と教えてくださいました。

「大きな木だから大変だったでしょうね」というと 「専門家の人が来られて切られました」といわれたので 「周囲には家もないのに 自分では難しかったのでしょうか」と聞きました。

Sさんは高齢ですがとてもお元気で 家の周りの樹木管理や草刈りに精を出しておられる姿はよく見かけていたのです。

ご主人が「家や畑を痛める心配はないのですが 電線がありますから」といいながら 「専門家の人がロープをかけて 倒していました」と教えてくださいました。

過疎になった田舎でも 電線という障碍物があったのです。

どんな山奥でも 民家がある限りは 電線や電話線はあるのだということをあらためて気づきました。


 

 

結果を見ることが出来ないことでも



長い間考えているけれども 「これで行こう!」という方向が見つからないことは誰にでもあるものです。

そのことで なぜ決断が出来ないのだろうと自問することもあります。

あるいは 何かはっきりしたヒントが見つかったり 「うまく行くかもわからない」という手応えがあるといいのですが それすら感じることが出来ない未知のものに取りかかるときは大きな決断が必要です。

自分で結果を出したい 結果を見届けたいという思いがあれば どうしても即効性がある方向や手段を選びたくなります。

長期間役に立つものは 役に立つようになるまで時間がかかることを覚悟しなければなりません。

ちょうどリンゴとか梨や柿の木を植えるように 4~8年しなければ実がならないことを覚悟して木を植えるようなことです。

実がなり始めたら何年もの年月収獲できますが 植える本人はその実を収穫することが出来ないこともあります。

収穫のときまで存命できるかどうかわからない年齢になると 躊躇するのも当然です。発想もしないかもわかりません。

それでも 育てることを楽しみ 収穫は「おまけ」と考えるようになることが大事なのでしょう。

「人生は途中」 。
結果だけではないと思っています。


 

 

近大マグロをいただきました



お葬式が終わった後 野帰りとか初七日といった行事のためしばらくの時間があります。

その間にお昼ごはんをいただきますが 先日のおもてなしは豪華でした。

すでに「喪」とか「精進」ということばや習慣はすっかり消えてしまった料理でした。

それを嘆くことはとっくに止めましたが 「いのちのかけがえなさ」を体感する方法が見つからないので モヤモヤ感は消えません。

会館専属の料理屋さんなので 一定の慎みは感じるものの 魅力づくりに工夫がこらしてあったのです。

会席料理をいただくときに見るような お品書きがテーブルに置いてありました。その中に いちいちの食材のブランドと いわれが書いてありました。

お刺身は愛媛のブランド鯛と近大マグロの中トロ。野菜サラダは 契約農家で育てた準無農薬栽培の野菜を使用。焼き物にはノルウエイの特定の海域でとれたブランド鮭などと詳しく書かれていました。

おもてなしを目当てに会館選びをするとは考えられませんが 参列した人に「あのお葬式はごちそうだったね」という印象ばかりが残るのはどうかと思うのです。