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アーカイブ:過疎四苦八苦

過疎四苦八苦

「朝飯前」



関東の国立大学で行った若者の意識調査によると 他人から何かの好意を差し出されたとき 男性には「自分にはその好意を受ける資格がない」としり込みする人が多いとか。

一方女性では「自分はその好意に対してお返しができない」とお断りする人が多いという。

意識調査の詳しい内容はわからないが 「好意を受けることを躊躇する」事実には興味がわく。

日常で何気なく行われる「おすそわけ」とか「お手伝い」の声掛け対しても このような反応が生じるというのだ。

無償であるはずの好意に対価を感じ 好意の解釈が狭き門になり閉じかけているように思える。

催しに参加して楽しむだけというのも好意。「こんにちは」と声をかけることだって好意。「朝飯前」といわれるお手伝いをお願いする・・・などなど。

高齢化の地域やお寺などの役目として 好意の心を広げる機能を担っているのではないだろうか。そんなことを思っている。


 

 

メダリストたちのトレーニング



小林陵侑平野歩夢選手など 北京オリンピックのメダリストのトレーニングの様子が紹介されています。

顔をゆがめるトレーニングのシーンもありますが 多くはひとりで黙々と そして工夫をこらしてのトレーニングの様子です。

そしてその姿には頭が下がると同時に 刺激もいただきます。

お坊さんの活動には 個性はありますが競争とか順位はありません。

だからというわけではありませんが オリンピアンのようなトレーニングは考えたことがありませんでした。

トレーニングの様子を見ながら 「私はどのようなトレーニングをしてきたか」と自分の生活を考える機会になりました。

お坊さんの生活はナンバーワンでなくオンリーワンなので とくにメニューをつくってのトレーニングはありません。

そんなことをあれこれ考えていたら 「気づきを深めるためのトレーニングメニュー」は現場と仏法のなかに準備されていることに気づきました。

 

 

公衆トイレは文化度評価場所では?



石見海浜公園まで散歩の足を延ばしました。

車を20キロくらい走らせたら海の公園があります。その周囲を散歩したら気もちいいだろうと思いついて出かけました。

公園内には数カ所の公衆トイレがありますが 近いところを利用したら なんと最新の機能を持ったトイレ。

そしてそれがまたきれいに清掃されていて大満足でした。

かれこれ30年もなるでしょうか 倉吉市が「公衆トイレの町」として名乗り出たことがありました。

「すごいことやるもんだ」と見学に立ち寄ったことがありました。

その前に古い印度や中国で 穴の上に板を二枚渡したトイレを体験していたので トイレには文化度の差が鮮明に見えることを感じていました。

そして先日の石見海浜公園の公衆トイレ。石見の文化度は自慢できます。


 

 

3回目はモデルナ



今日ワクチンの3回目を接種します。

2回まではファイザー社のものでしたが今回はモデルナ社のもの。

「次回はモデルナですが」といわれたとき 「同じものはないのですか?」と尋ねました。

「3月になれば同じものになりますが・・」といわれたのですが 早い接種を選びました。

モデルナの効果とか副反応 あるいは混合で接種する問題など私にはわかりません。

あれこれと話しておられる人にも 確かな根拠はないのです。

不安な気持ちでいたら 不安をあおるような情報が入りやすく過大に響きます。

早い接種を選んだことに惑うことなく 今日の接種になりました。


 

 

小さく 深く 美しく



「優しく 強く おもしろく」という 『ほぼ日』の糸井さんの行動スローガンに共感していました。

しばらく意識しながら真似をしていたのですが 「やさしく ふかく うつくしく」の方が自分に合いそうだと思って変更しました。

それを意識しながらしばらく続けていたのですが やはり座り心地がいま一つなのです。

そこで今度は 「小さく 深く 美しく」に変えました。

行動に節操がないといわれたらそれまでですが たとえ短期間で終わるにしても 自分の生活を考えることばをそばに置きたいと思うからです。

大きなことを考えないで 自分サイズの小さなことを深く考えて実行する。

そしてそれを美しく見ていただけるように表現しようという行動スローガンです。


 

 

『料理と利他』



『料理と利他』という本を読み始めた。

土井善晴さんを追っかけていたらこの本が目について購入した。

対談本として編集されているが 著者は中島岳志さんという東京工業大学の先生。

なんでもこの先生が参加している「利他学会議」という会があるのだそうだ。

「利他」とはもともと仏教の専売用語と思っていたので 宗教家として興味は湧く。

さらに なんとなく世の中のことを憂いながら 「思いやり」とか「利他」の大切さを自覚してもらうことが必要とも感じていた。

そういう気分の網にかかったのがこの一冊。

「利他」をキーワードにして世の中を眺めてみよう。「利他」をキーワードに小さな行動を起こしてみよう。

そうすると そこからきっと何かが生まれるように思っている。


 

 

「一如」と「一体」あるいは「不二」



「一如」という文字を耳にしたり目にすることはありませんか。「いちにょ」と読みます。

多くは仏教の四文字熟語として使われています。例えば「身心一如」「梵我一如」「形影一如」。

意味は「切り離すことが出来ないとか」「見えないものがカタチになっている」という真実です。

同じ意味のことばに「一体」とか「不二」があります。この文字は日常で使われていることも多く 馴染みがあります。

学問的に厳密にいえば違うのかもわかりませんが 私は同じ意味と理解しています。

「仏梵一体」「機法一体」あるいは「身土不二」とか「生仏不二」。別々に見えていても実は一つだという意味です。

でもそれが腑に落ちることはとても難しいのです。

考えるときは まず自分がいて別の個体のことを考えるので 一つにならないからです。厄介なことばですね。


 

 

賀状の宛名



今年 賀状の宛名のことが気になりました。

どうってことがないことにも思えますが 私には「これは改めなければ」と思えたことでした。

今年いただいた賀状を見ていたら 家人と連名の宛名で受け取っていたものが半分くらいはありました。

ビジネスなどで お付き合いをしている方からのものが 私一人の名前で届ことはありです。

家族ぐるみとか地域でのおつきあいなら 家人と連名で届くのがいいと思ったのです。

そう考えながら これからは連れ合いのお方にも 年賀のことばをおかけしようと思ったのです。

今私があるのも あるいは家人があるのも夫婦としての支え合いがあってのこと。

そう思うと同時に そんな当たり前の姿を賀状のような伝統的なカタチにも出すことを提案をしようと思ったのです。

というわけで 今年いただいた賀状に書かれている連れ合いのお方の名前を 宛名ソフトに入力完了しました。

 

 


節分の豆まきの話題と 石見地方のお店で売られている般若面を見て思い出したことがあります。

以前聞いていたことで 面師が彫った鬼の面には耳がないというお話です。

それを いつどこで聞いたのかまったく覚えていませんが 確かに聞きました。

そのわけは 他人のいうことに聞く耳持たない姿が鬼の姿だというのです。

そういわれたら 耳がない代わりに角があるという鬼面には納得します。

その逆として 仏像の仏さまのお耳はとても大きいことを思います。

それは聞こえない声 声にならない声までも聴こうとされるお姿といえるのでしょうか。

目の前で見ることが出来るお面や木像に込められているメッセージを読み取ること そして伝えることは大切なことと思っています。


 

 

自動会計機



ユニクロのお店に行ったら自動会計機のカウンターが出来ていた。

昨年の改装時に設置されたと思うが 実際に利用するのは先日が初めて。

「その場所に買い物カゴを置いてください」といわれ カウンターにある箱状のくぼみに置いた。

すると目の前のパネルに 買い物点数と金額が!。

「点数は間違いありませんか?」と問われたので カゴをの覗いて数えたら12点。

思わず「合ってます。どうやって数えたのですか?」と質問。

「品物にチップがつけてありますから」という答え。「でも ときどき読み取れないときがあります」と付け加えられた。

「多く読んでしまう」といわれるとこちらが損になるが「読み取れないときがある」ということは先方の損。

自動会計機制度への信頼を植え付けるビジネス会話まで準備訓練されているとは!。 

「ユニクロめ やるな!」。