裏庭や道端にイノシシが荒らした痕跡を見なくなった。
そういえばサルの姿も見えない。話題の中にも出なくなった。
彼らはどうしたのだろうか。どこかに行ってしまったのだろうか。
この地域に餌が亡くなったのでどこかに行った。
あるいは道路工事が広範囲で行われているため近づかなくなった。おそらくそれが原因だろう。
盛んに出没していたころは憎まれ者だった。でも姿が見えなくなると少し寂しい。
過疎地域では彼らもまた仕事と話題の創造者だ。
暮らしを無難に過ごしたい我々にとって彼らのような存在は刺激と変化をくれている。
共存とか自然破壊問題とか考えさせてくれている。
それでも出てこない方がいい。
花の季節を前にして バラの大苗を植えました。
苗を売っているお店を2軒を回って 8本の苗を購入しました。
間隔がある場所に 華やかになるように植えました。ツルバラのアーチも増やしました。
6月ごろには 畑一面のバラを見ることができるでしょう。
このようにせっせと育てていますが 花の名前を覚えようとする気持ちはないのです。
そのためか 訪れてくださる方も名前には関心が薄いようで 問われたこともありません。
真にバラ好きの人はきっとそうではないと思いますが 私は覚えられません。
ひとつひとつのバラを鑑賞するのではなく 漠然と花を育てているからでしょう。
この機会に 愛情をもってしっかり鑑賞することを始めようと思います。
我が家というかお寺での「おもてなしご飯」の原則は 一汁一菜。
一菜といっても実際はお漬物だから ご飯とお味噌汁という感じで いたってシンプル。
中心になるのは一汁だ。具沢山の豚汁。
先日のおもてなしお昼ご飯の豚汁の具を数えたら 9種類の具が入っていた。それとお味噌。
お味噌というのは なぜか万人に好かれる味だ。寒い時期に 熱いお汁をすするのがご馳走。
簡単なおもてなしに思えるが 手抜きはできない。
新鮮な季節の野菜を選んで 直前に料理して召し上がっていただく。
いただいてくださる人のお顔を思いながら準備させていただくことが「おもてなし」と思っている。
近くにある水族館「アクアス」でシロイルカのショウを見た。
2頭のシロイルカが 飼育員の人とともにすばらしい演技を見せてくれた。
鼻で空気を吸い込むことや 口から水鉄砲のように水を吹き出したりする特性の紹介。
挨拶や口から空気の輪を吹き出すバブリング。15分の演技だったが楽しませてもらった。
家人が このショウのスタートは飼育員が水槽にきちんと立つことから始まるらしいといった。
飼育者がふらついていたらイルカが落ち着かないのだという。確かにそうだと思う。
私が注目していたのは イルカが演技を終えるたびに飼育員が必ずご褒美をしていたことだ。
口にやさしく手を当ててほめていた。これも秘訣だと思って見ていた。
人間もイルカと同じようだ。
お葬式の表白を書きなら思った。
その人の人生など誰にもわからないのではないかということだ。
身近な家族であっても ご本人であってもわからないものではないか。
何ごとも「縁起」だからだ。
表面に見える言動は氷山の一角にすぎない。見えない内面に大きな人生が潜んでいるのだ。
DNAとか幼いころから身につけてきた思考の習性。そのようなものは外部からは見えないが それが人生を支えているのだ。
その人を知るということは その人を支えている見えない習性に気づこうとすることだ。
そしてその習性は 煩悩の組み合わせによってつくられているように思えてならない。
そんなことを考えながら 故人の表白文を書いている。
時間の流れが変わる場所があるという。
「お見えくださったお客さまが 『ここは時間がゆっくり流れていますね』といわれます」と 大森銀山にあるお店でいわれた。
時間の流れに早い遅いの違いはないから それは人間の感覚だと思うが 確かに違いを感じることがある。
すぐ思いついたことは 時間を管理しようと思えば流れが速くなる。
「今日中にしなければならない」とか「それが終れば次は・・・」などを決めると 時間が早く過ぎていくことを感じる。
時間を管理する必要があるのは 他者からの要求があるからだ。
遊びに夢中になっている子どは 時間も自分も管理してはいない。周囲の大人が管理する。
自然界という他者と生理の欲求に合わせて生きると 脳の中のホルモンが時間を本来のリズムにしてくれるはずだ。
時間に貧乏している人がいる。時間が豊富な人もおられる。
すべての人に時間は一日に24時間。誰もが一年では365日分も同じようにいただいている。
にもかかわらず「時間がない」といい続けている人は時間の貧乏人。
一方で「時間をもて余している」という人は 時間を無駄にしている人。
ほんとにそうなんだろうか。
時間のことを道具と思うか いのちと思うか。
道具と思えば 不足したり不要になったりするが いのちと思えば不足も不要もなくなる。
不足とか不要を感じるときは いのちの使い方を考えるときなのだ。
北京オリンピック大会が終りました。
日本選手の活躍にわくわくし 珍しい競技も楽しませていただきました。
冬の大会は 当然のことながら雪と氷をベースにした競技ばかりです。
つまりスキーとスケートの二つを使った競技ばかりと思っていましたが スケートボードという道具も増えていました。
道具を使って自然に立ち向かう 美しさ強さ高さ速さとその組み合わせで体力を競う。
そこには勇気とか忍耐力 あるいは周囲からの重圧に対する忍耐力といった 自分の精神力との競争。
冬のオリンピック大会は 人間力鍛錬の道場だと思いながら見ていました。
みなさんご苦労さま そしてありがとう。
思いつきの行動で足立美術館に立ち寄りました。
足立美術館は島根県最大の美術館で 50年以上の歴史があります。
毎回何かの驚きがありますが 今回の驚きは「偉人の年表」でした。
北大路廬山人 横山大観 そして足立全康さんの年表です。
いままでも年表を漠然と見ることはありましたが 今回はていねいに読みました。
いつものように絵を鑑賞して歩いていましたが いっしょにいた家人の姿が見えないのです。
後戻りしてみると 年表の前に立って読んでいました。そこで私も読み始めて気づきをいただいたのです。
偉人方の年表にはドラマがあります。
その裏まで読むと 壮大なドラマが見えてきした。作品に現れているいのちも感じることができました。
「遊ぶ」ということば遣いが気になることがあります。
ひとことで「遊び」といても 遊び道具とかお金を使った大人の遊びのような いわゆる娯楽のようなことではありません。
何かを期待しながら 仕事で挑戦的なことをするとか 何かに夢中になっているといった感覚に近いことです。
その報酬とか成果などのダメージは気にすることなく 「やり直せばいい」という思いを抱えているという感覚です。
親鸞さまのおことばの中に「遊煩悩林」ということばもあって これも同じ感覚ではないかと思ってもいます。
ミヒャエル・エンデさんが 「遊びのかたちにおいてだけ、わたしは生産的になれるのだと。」いう意味も同じだと思えます。
「遊び」の感覚を抱えながら生きる人生は 「自然法爾」というゆとりをもった人生といえるのでしょう。