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アーカイブ:2021年
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1月

過疎四苦八苦

情けは人の為ならず



「情けは人の為ならず」。

子どものころ何度か親が口にしていたことばでもあり 大人になっても聞きました。

誰でも耳にされたことばでしょうが 今このことばに出会うと苦い思い出が浮かびます。

学生時代まではさほどでもなかったと思うのですが ビジネスマンとして社会生活を続けるうち無自覚のうちに 意味がねじれてしまったのです。

すっかり変わったというわけではなく 半分かもう少し多めに別の解釈が入り込んだのです。

本来の意味は「情けをかけることは それは決して他人のためではないのだ」という解釈100%です。

ところが「情けをかけることは その相手にとっていいことではない」という解釈が主流になって動き始めたのです。

就職してしばらくしたとき 自立が大切だという話の文脈で「情けは人のためにならない」と話したことがありました。

それを聞いた母親が 「そんなことをいうようになって」とボソッといったことが耳に残っているのです。

今では本心から 情けをかけることが出来る人間になりたいと思うのです。


 

 

センサーは賢いのかバカなのか



センサーは人間と違い 空気を読むようなことはしません。

ところがセンサーという道具を使い慣れてくると つい人間と同じように思うようになってきます。

お寺の塀と会館の軒先に 夜になるとLEDのランプを108灯ともしています。

冬場は日暮れが早いので 夕方5時過ぎから翌日の朝7時過ぎまで点灯することになります。

お天気が悪い日は それより1時間くらい点滅が延長することも珍しくないのです。

そこで 点灯して8時間後に消灯するようにセットしてみました。

初日は上首尾でしたが 一昨日は朝方悪天候だったので昼前にもセンサーが感知して点灯してしまいました。

それから再び8時間も点灯するのかと困惑したのですが 昼には消えていました。

まさか人工頭脳がついているはずもなく センサーってどこまで賢いのかわからなくなっています。

 

 

4度目の植樹



お寺の前の山に 山桜を1000本植えたことがありました。

ところが10本足らずが生き延びただけで その他はすべて笹竹とかクズマカズラに襲われ枯れてしまいました。

桜の山をつくるという夢はあえなく消えました。

夢は消えたと思っていたのですが しぶとく生き延びていたようで 20年たってまた桜を植えることにしました。

我が家の裏山には椿の木が自生しており 椿の山にしようと思い その作業を依頼しました。

竹や雑木が伐採されて 小さな広場の姿が見え始めたら ふいに「ここに桜を」と思ったのです。

かっては山桜を植えましたが 今回はソメイヨシノにします。

早ければ今年の春から 遅くても来年には ご縁がある人たちとお花見をするという夢がよみがえりました。


 

 

相棒



「相棒」というテレビドラマを観ています。

物語の展開テンポが速いので しっかり頭の運動になっています。

番組のタイトルの「相棒」は 組織の上下ではなく横並びになっている「コンビの妙」を示唆しているようです。

相棒は 主人公の意図を気づかせたり 世間感覚を表現する役柄になっているようです。

その中心ストーリーは 勧善懲悪とか事件解決の推理ではなく 「真実」と世間の常識との軋轢にあります。

昨年から見始めたドラマですが やっと今ごろプロデューサーの意図が分かったように思います。

人の生き甲斐とかそのもつれなど 人間の内面をドラマ化しようとしていると気づきました。


 

 

葬儀業者に教わること



お坊さんが計画された研修会の予告を見ました。

葬儀業者の方をパネラーにお迎えして ディスカッションを計画されているそうです。

宗教者と葬儀業者とはつながりがあり 必要な意思統一課題への気づきあると思われたのでしょう。

この研修会があるという予告を見たとき その意図に疑問を感じました。

ご遺族や参列者が納得される葬儀は どのような葬儀なのかを考える。
コロナ禍によって変化している葬儀の在り方を考える。

そのような研修会の意図が想像できるのですが 何よりも宗教者が葬儀をどのように理解されておられるかを明確にしておかなければなりません。

それは業者といっしょに考えることではありません。

葬儀の日を中心とした前後の時間は ご遺族や縁者が人生の真実に触れておられる時間です。

その限られた時間の使い方は ご遺族と宗教者で決めることだと考えています。

 

 

あずきバタートーストをつくりました



旬刊で届く新聞には 京都の料理店紹介のコラムが連載されています。

先日 「あずきバタートースト」の発祥のお店という記事が紹介されていました。

簡単そうなのでつくってみようと思い立ち 「小豆餡の買い置きはない?」と家人にたずねました。

「ある」というので さっそくつくりました。

自家製の焼き立てのパンをトーストして 餡とバターをのせて少しだけオーブンに。

ただそれだけの手間で 「絶妙のコラボ」と紹介されていたトーストが出来上がりました。

でもお味は・・・私には今一つ・・・。

好みがあることなのであれこれ評価はしませんが 専門家らしいお方の紹介も そのお方の好みになるようです。

それでもやってみなければ自分の評価になりません。新しいことは「つべこべいわないでやってみる」という原則から始まります。

 

 

感動したことを伝えよう



私にとっては とても示唆に富んでいると思う本に巡り合いました。

ようやく読み終えたあと この本を誰かに紹介したい思いが湧きました。

「私はここに興味を感じました」というメッセージを添えて 本を贈呈する。

贈られた相手の人から 「参考になった」とかあるいは「自分にはなじめなかった」などの感想が届く。

いや 読まれなかったとしてもかまわないが 「こんな本に感動する人もいるんだ」と知ってもらうこともある。

そんなことを思って 数人のお方にその本を贈呈しようと思っています。

それがきっかけになって 現状をブレイクするヒントになればという思いも少しあるのです。


 

 

遊び心が生まれるとき



今日は「遊び心が動く」と感じる日があります。

というのは 全く遊び心がない日もあるということです。なれ合いで仕事に向かうときや  ゆとりがないと生まれることはありません。

私が遊び心というのは どこかに遊びに行くとか 遊びを探す行動ではありません。

何かの考え事をするときとか行動をするとき 「それをするのにおもしろいやり方はないか」とか「参加者がおもしろく参加できるやり方はないか」と考えることです。

まじめな仕事を遊びながらするとか 仕事を遊びにしようというのではありません。

例えば お経は姿勢を正して正確に読んでいただく。そして読み終えた後 「姿勢を崩すことなく読み通せましか」と質問してみるというようなことです。

経文に何が書かれていたかというお話もいいですが 姿勢を正して読経できたかどうか少し異質な質問することが遊び心と思うのです。

何も考えずに目に前のことに取り組まないで 楽しくお参りしていただくことを考え続けると生まれるようです。


 

 

こんなライフスタイルがある



ライフスタイルのことを考えさせられました。

ときどき利用する 古民家を利用したイタリアンのお店で食事をしたあとです。

料理の味やセンスは世界の三ツ星レストランに劣ってはいません(といっても超一流店などに行ったことはないのですが 笑)。

田舎のお客さまが無知だからといって ほどほどの料理をするという気配もありません。

そのお店の営業日と時間は 毎週水曜日から土曜日で午前11時から午後6時まで。

お昼に行っても満席で待つことはないくらいなお客さまの入り。

日曜日には その場所と食事(要望があれば)を地元のサークルさんなどが催す会合に開放して 交流の場ができるようです。

プライベートなコンサートがあり テーブルマナーの研修会も行われたり・・・。

オーナーシェフのご主人が設けている休日は 地域の仲間のために行動する時間らしく 地域ぐるみでゴールデンタイムをシェアーするように見受けました。

こんなライフスタイルが当たり前になる地域が実現できたらおもしろいのですが。



 

 

勉強会という仲間のつくり方



今から40年以上も古いお話しです。

会社勤めを終えて お寺の住職として故郷に戻ってきた直後から始まるお話しです。

若くして隣のお寺の住職として活躍されていた先輩から お声がかかりました。

「待っていたよ。有志を集め一緒に勉強しようじゃないか」という提案でした。

さっそく二人で構想を話し合いながら 会の設立準備を始めました。

関心をもっていただきそうなお方にお声をかけ 熱い思いをもった一つの会が誕生しました。

月例の輪読会や 年に一度の研修旅行あるいは教材を発掘したり貸出すなど 充実した勉強会でした。

二人とも若返りを期待して引退しましたが 思い出多い集まりでした。

現在ではこのような会を設立し継続することは困難に思えます。課題が多様化し 情報手段も多様化して個々の選択肢は大幅に増えているからです。

そのような環境の中での仲間づくりは 過去とは違ってできているのでしょう。