お昼ご飯をはさんでの話し合いで 数時間たったとき お客さんから提案がありました。
「お墓へ行ってみませんか」というお誘いでした。
お寺の前にある墓地へ お見えになったとき何度も一緒に出掛けていたのですが 今回はお客さんの方から カフェに行くようなお誘いを受けたのです。
そろそろ気分転換が欲しいタイミングでしたから さっそく出かけました。
お墓を見て何か思うことがあるようで しばらく見渡しておられました。
人生を考え 自分と向き合う場所として墓地を訪れるという選択もありかと気づきました。
墓地では 過去と未来が見えます。
あらためて 日常をリセットするにもってこいの場所だったのです。
昨日は 近くにあるイタリアンのお店でランチにしました。
古民家を利用したのどかな場所にあるお店でとても落ち着くお店です。
地産の食材を使ってセンスのいいお料理でもてなしていただきました。
笑顔がいいオーナーご夫妻とお話しして すばらしいお話を聞くことができました。
「自分たちは飲食業で終わりたいとは思っていません」と話されました。
「ただ美味しい食事を食べていただくだけではなく この場所を使って皆さんが心を繋いでいただきたいと思っているのです」というお話しでした。
小さなイベント 子育ての情報交換や小さな展示会などが始まっています。
過疎地のど真ん中で ぬくもりを感じる時間が見つかりました。
先日「摘み草料理」という聞きなれない名前を耳にしました。
想像した通り 野山に自生している食材を集めておもてなしをするお料理のことでした。
同じように 野生動物のお肉を使った料理は「ジビエ料理」。
近海の海で獲れたお魚の料理で「漁師めし」という呼び名も聞きます。
いまこのような名前のことを考え始めたのは ご近所の皆さんがくださった食材を使ってお料理をする我が家のお料理を どう呼べばいいかと思ったからです。
そして「好意のお料理」か「おすそ分けお料理」などと思い浮かべたのですがどうもすっきりしません。
「土井善晴さんならどうおっしゃるのだろうか」などと考えを巡らせ 「物語るお料理」と呼んでみることにしました。
すべての食材に生き生きした物語りがあり 顔が見えるからです。
勉強会とかイベントなど いろんな行事にはカタチがあります。
講義形式とか見学形式のような対面のカタチもあれば 参加者がステージに上がれるようになった参加型のカタチもあります。
世の中のトレンドとしては 主催者と観衆がいっしょに楽しむような場面が増えつつあると感じます。
その効用や是非について試行錯誤しながら行われているようですが おもしろいと思うことはたくさんあります。
このたびのコロナ禍のなかで 仏教の状況もお寺の行事も変わりました。
そこでお寺での行事を 参加型にしてみようと思いつきました。
いっしょに読経することはもちろんですが 散華(さんげ)という動作を加えてもらうことにしました。
その場面になったら全員に起立していただき 一斉に紙の花びらを撒いていただくのです。
10回も撒いていると 参加したという感覚やその行為への疑問が生まれると思っているのです。
私の行動スローガンは「やさしく つよく おもしろく」です。
具体的にいえば やさしく」とは相手の気持ちを考えること。
「つよく」とは 自分の考えをつらぬくこと。
「おもしろく」とは 自分の個性を丸出しにするくらいな感じです。
若いころよく聞いていた石原裕次郎の歌に 「別れの夜明け」という歌があります。
その歌詞の中に「あなたに男の強さを知った」「お前に女のやさしさ知った」ということばがあります。
アレクサを相手に 裕次郎をリクエストしたらこの歌が流れました。思わずスローガンを思い出して書いています。
「やさしくなりたいなあ」「つよくなりたいなあ」「おもしろくやりたいなあ」。
どれもこれも相手が決めること。自己満足にならないようにしたいものです。
廊下のサッシュの入れ替えをお願いしていた業者さんから 「一応仕事は終りました」という報告を受けました。
ガラス面が大きくなったこともあり 見違えるようにきれいになりました。
ところが取り付け作業中に出たゴミが レールに残ったままになっているのです。
取り付けた後の掃除はしておられなかったのです。
業者さんに「これで完了ですか」とたずねたら 「ハイそうです」という返事。
「掃除はされないのですか」と重ねてたずねると 「新築のとき以外は掃除をつけることはしていないのですが」と。
「これでいいのかなあ」という思いがぬぐえないのです。
「作業の終わりはすなわち利用の始まり」と思いたいのですが 自分本位の考えでしょうか。
調理のプロの作業終了は 厨房の掃除が完了したときのはずですから。
都会で葬儀の司会をしておられたご婦人の話を 家人から聞きました。
そのお方は 最初から葬儀場の司会者ではなかったそうです。
初めは結婚式の司会をされていたそうですが いつの間にか葬儀の司会者になられたというのです。
そのわけを尋ねると 「結婚式の司会は体力が必要ですが 葬儀の司会にはそれが要りませんから」とのこと。
「葬儀の司会では 力みや感情を入れないで話すように」と心がけているのだそうです。
悲しみの場では それぞれが故人を思い 静かに人生をしのんでいただくように。
おめでたい結婚式では 祝意を誘導して会場が華やかに盛り上がるように。
そうであれば いっしょに参加者を盛り上げるエネルギーは若い感覚の方がいい。
思いを巡らす場には 年齢を重ねて感情を消す力がある人がふさわしい。
そのように理解したのです。
たわいいもないことですが 自分ではおもしろいと思ったことがあります。
「お坊さんの役目って 仏法をつなぐ接着剤の役目なんだ」と思って考えたことです。
その家の一人暮らしのご婦人は 臨済禅宗のお寺から職人さんに嫁いだ人。その職人さんのお母さんは浄土真宗の門徒。
そのお母さんがお亡くなりになったあと その家でのお参りではいつでも浄土真宗のお話し。
今ではそのご婦人は ためらいもなく『正信偈』という浄土真宗の本を読んでくださって接着成功。
ところが 都会暮らしをされている子どもさんがその家に戻って暮らされることはなさそう。
お坊さんだけが接着剤になっている思っていたのですが 家とか家族の力が大きいと気づいたのです。
「その青い 花の名長し水無月に あなたがくれた 花と覚える」
俵万智さんの歌です。なんと素直であたたかい歌と思います。
この歌を詠んでふと思ったことは 我が家にある花の庭のことです。
バラ園をつくろうとか 山野草の庭にしようなどと構想のようなことを考えていたときがありました。
ところが次々に新しいお花が増えて なかなか構想していた庭には近づけません。
諦めたわけではないのですが それはそれで悪くないと思うようになっていました。
いろいろな人が「これを植えたら」といってくださったお花。
家人がお花好きの人から分けていただいたお花。
いろんなお花が集まって そして「あの人から」「あのときお店で」という思い出の花いっぱいの庭があってもいいと思い始めているのです。
お参りしたお宅で お参り後のお茶をいただいているときでした。
玄関のドアが開いて連合自治会長さんがお見えになったようです。
「何事ですか?」とご主人に尋ねたら 「海を漂流してきたボンベが 川に上がっているのでいっしょに片付けよう」という約束をしていたそうです。
ボンベにはハングル文字が書かれていて 様式は日本製のものとは違っているといわれるのです。
川はご自宅の近くなので見に行きました。日本でいう家庭用のサイズのボンベで 軽々と引き揚げられました。
どうやら容器は空になっているらしく 安心して片付けておられました。
「新型の機雷ではないか」とか「毒ガスのボンベではないか」と冗談とも真剣ともつかない話が出たのは 隣国の政治不安状態があるからです。
アメリカ大統領の選挙といい 思いがけないところで世界は確かにつながっています。