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アーカイブ:2020年
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10月

過疎四苦八苦

読書の日



なんだか小学校の生徒に戻ったような気分ですが 先日は夫婦で「読書の日」でした。

家事もせずテレビもつけないで 買い込んだ本をひたすら読むという一日でした。

今回が2回目で 家人は3冊 私は2冊の本を買っていました。

私の2冊は 『なぜネギ1本が1万円で売れるのか』と『世界は贈与でできている』という本でした。

どちらの本も面白い本ですが 「贈与」の本には考えさせられています。

近内悠太さんという教育者が書かれた本で 「糸井重里さん 山口周さん 茂木健一郎さん絶賛」という帯が目に留まって衝動買いで購入したものです。

まだ読み始めたばかりですが 今抱えている課題の切口がのぞいているようで興奮しています。

著者には哲学研究者という肩書もあるようで 課題に向き合うための概念に出会えそうな期待を感じているのです。


 

 

ことばが喉まで出ていながら出ない



抱えている問題の答が ついそこまで出かかっているように感じるのに出ないというもどかしさが続いています。

問題というのは あと少しは残るはずの人生をかけるものをとらえることばです。

時代は 仏法の力が消えかけている「滅法」という時代。

その中で 自分が受け取ったバトンを次の世代に渡すのですが どのようなバトンを渡すのかを探しているのです。

完成したバトンを渡すことはできませんが 「これを目指して走ったらどうか」というヒントくらいは渡したいのです。

仏法の中から 時代の一灯となる言語を創造したいと思っているわけです。

仏法のことばには 錆びついたことばが増えています。

文字の解釈は出来ても 生活の中には見えません。

たとえば「布施」の意味は理解できても 布施のこころはとっくに生活の場から消えているようなものです。

世の中から仏法が消えたのではなく 「ことばが消えた」と受け止めてバトンを探しているのです。

 

 

15分の神楽舞い


宿泊したお客さんサービスのために ホテルが用意した「神楽」を見ました。

上演時間は15分。出し物はオロチ。演者は3人。鳴り物はテープ。

場面は姫がオロチにのまれる場面。次にスサノオノミコトが登場し ひと舞いして退場。

姫の演者が媼に早変わりして酒樽を出す。オロチが登場し 様子をうかがいながらやがて酒を呑みはじめる。

眠りこけた場にスサノオが登場。剱を抜いてオロチをおそう。

三度くらいの見せ場があって オロチは首をとられて尻尾を舞台に残して消える。

スサノオは 尻尾を割いて剱を取り出し 喜びの舞いを一舞。

舞台は約10畳くらい。制限のある中で3人は忠実にストーリーを演じました。



 

 

ユーチューブでライブ中のお参りを体験しました



山陰の各地の浄土真宗寺院で 年間最大行事である報恩講が始まっています。

その行事が今年は大きな変化をしています。

コロナ禍であることが原因で まずお参りの善男善女に接待するお斎という食事がなくなっています。

あるいは過密になることを警戒して お坊さんのお参りも制限され 行事時間も短縮されています。

高齢者が多い地区なら お参りも減るだろうという予想もあります。

その一方ではユーチューブによるライブ参拝が計画されるといった 新しい挑戦も生まれました。

昨日はそのお寺にお参りして 読経している様子を一部始終撮影される体験をしました。

あまり目立たない小さなカメラでしたが 行儀作法のすべてをしっかり撮影されたのです。

「威儀を崩さないように」とか「作法を間違えないように」と 新鮮な気分にしていただきました。

間違いはありましたが 新しい芽が育っています。


 

 

思わぬ申し出がありました



「○○さんのお葬式で読まれた表白のコピーがいただけないでしょうか」という申し出がありました。

お葬式の当日 申し出のご本人は参列されていましたが「耳が遠く 聞こえなかったので」といわれました。

今年からどなたのお葬式でも 故人の生涯を思いながら表白を読ませていただいております。

このたびは 一度も地元から出ることなく地元に貢献されたお姿を紹介したいと思いました。

故人が書の題材にしておられた山頭火の句から 「わかれてきた道がまっすぐ」という句に重ねて表白しました。

終わりに 故人が尽くしてくださったお寺の目的は 皆さまが「いのちの願い」に気づいてくださるを話しました。

この場は 「それを故人の遺言として読ませていただく場です」という趣旨を申し上げました。

 

 

「家族葬」とお断りしないお葬式



昨日お参りしたお葬式は「家族葬というお断りがないお葬式でした。

地域の皆さんが大勢お参りされて 一番広い会場でのお葬式になりました。

お参りの人は全員マスクをつけておられ いわゆるフィジカルディスタンスにも配慮がありました。

あとはお互いがどこまで気をつけるかという状態でした。

世界ではコロナ再流行の気配も感じられますが ニュースなどの話題は少しずつ減っています。

コロナを特別扱いしない暮らしが始まっているからでしょう。

長いコロナ禍の期間を経て 新しいライフスタイルが始まっているのです。

いろいろな体験を重ね 間合いを身につけ始めているということでしょう。


 

 

経験が謙虚さを育てる



自分の仕事ぶりを見られると 人はどのように思うのか考えています。

知人や同じ職場の人 あるいは同業者からじっくり見られる場合のことです。

例えば料理店の厨房や工場での仕事ぶりが 同業者とか同僚 あるいは上司に注目されるとしたらどうでしょうか。

そこでは「いやだなあ」という感情とか「ミスしないように」という警戒心が生まれることがあると思います。

私は若いころ お説教に招かれたお寺でお坊さんがお座りになって聞いておられると 話しにくかったという経験があります。

そのとき傲慢さが芽生える人と 「評価していただこう」という謙虚さが育つ人に分かれるように感じます。

それは人間としての未熟さなのだと私が気づいたのは そんな経験を重ねてからのことでした。 

専門家とか技術者は いつまでも未熟で未完成であるという謙虚さを失なわないようにしたいものです。


 

 

もっとも大事なことと大事に見えること



自分にとって最も大事な役目と 大事そうに見え役割があると思います。

その見分けが難しいので 大事そうに思えることに夢中になって ほんとうに大事な役目を果たせないことがあります。

別な表現をしたら 目的と手段を取り違えるということでもあります。

そのような混乱が生じるのは 目的を明確にしようとしてことばにするからだと思います。

ことばにして固定化したら 目的が「いのち」を失うからです。

「大戸屋」さんという外食チェーンが 別の業者に買収されるという出来事の放送を見ました。

大戸屋さんは 店内調理という手法で美味しい食事を出しておられたお店でした。

その方針を貫けば お客さまが買収から守ってくださるというお考えでしたが そうはなりませんでした。

目的は美味しい食事を食べ続けていただくことであり 店内調理によって出し続けることではなかったのです。

布教活動の目的も 同じことだと思いました。


 

 

ピーナツのお菓子7種



お客さまから 名産の「ピーナツお菓子」をいただきました。

その種類は7種類ありました。

落花生納豆 落花生おこし 茹で落花生 煎り落花生 落花生巻き カレー豆落花生 小粒バタピー落花生です。

落花生は好物なのでとてもうれしいのですが 私には困ったことがあります。

落花生を食べ過ぎて 痛風を発症したことがあるからです。

あの痛みは二度と味わいたくないので 頃合いを計らなければなりません。

すべての袋を開け 違う味の豆を少しずついただきたい思いがあるのですが 湿気を考えて一つずつ開けています。

すべてを食べ終わるまで 次の袋を早く開けたいという思いと 食べ過ぎない注意との葛藤を繰り返すことになります。


 

 

信頼して任せることは



「任せる」ということについて二日話題が続きました。

一つはお寺の行事の準備すべてを任せるということについて 二つ目は企業の存亡につながりかねない初動の情報についての話題でした。

「任せる」ということは 自分が楽をすることではないと思います。

自分でなければできないことに時間やエネルギーを集中することです。

責任を分担することで 自分が責任を取らないということとも違います。

責任を引き受けるという証明ができる体制をつくることです。

大きくは国家の危機管理や人命を預かる病院の体制などでは 信頼して「任せる」ことが行われていと思います。

性善説で信頼して任命し 性悪説によって体制をつくるということが行われているのでしょう。