涼しくなって 扇風機の必要がなくなりました。
灯油を使う暖房器具はまだ早いので 電熱式のものを一つだけ出しました。
片付けながら 我が家にある最新の扇風機には 金属部品が使ってないことに気づきました。
カバーや留め金が金属でないために 取りはずし方がわからず 引っ張ったり回すことを繰り返しました。
やっとネットで調べることを思いついて どうにか無事に掃除を終えました。
高齢者の家庭には 私のように戸惑う人が少なからずおられるのではないかと想像しました。
扇風機に限らず いろいろな家庭用品から金属が減って仕様がさま変わりしています。
メーカーの人たちは 当然お手入れのことは考えて設計されると思いますが 旧型の用品に慣れた高齢者がいることも 設計に加味して欲しいと思いました。
お寺で必要な品物とか お坊さんの装束類の行商にときどき京都からセールスマンが訪ねてくれます。
昨日は久しぶりにお目にかかって しばらくの京都や訪問先のお寺の状況を聞きました。
多くの寺を訪ねている方なので その地方のこととかお坊さんの考え方をしっかり見聞しておられます。
納骨堂ビジネスのこととか 折り込みによるお布施の額面表示のこと。あるいはお葬式や法事の装束のことや メーカーさんたちの商況のことなど様々です。
お話をお聞きしながら お寺の存亡への危機感がないお寺が多いことを感じます。
また世間との接触が浅く 伝道の姿勢への変化もなさそうです。
「小さなことでもいいから おもしろいお考えを実行しているお坊さんのことを紹介してください」とお願いしているのですが どうも見つかってないようでした。
変革者はいつの時代でも 奇妙というかおもしろい行動をする人の中から現れているのです。
もしそんな人がおられたらお話をお聞かせいただきたいと思っているのです。
織田信長が宣教師さんのお話に耳を澄ませていたことと同じです。
どこかのお寺のフェースブックに 「知って犯す罪は悪いが 知らずに犯す罪は深い」ということばが書いてありました。
以前 同じようなことばを見ていたのですが そのときは「知らずに犯す罪はより悪い」と早とちりして受け止めていました。
このたび改めて読んでみたら 「悪い」ではなく「深い」と書いてありました。
知らずに犯している罪は かならず繰り返すことになります。さらにあらためることも詫びることもありません。
その罪には底がない深みがあるという意味なのでしょう。
先日の夕方 隣の市でコロナ感染者が出たというニュースを電話で知りました。
その時点では人物を特定する話はありませんでしたが 翌朝のテレビで感染の状況が少しわかりました。
そして昼には人物まで伝わってきたのです。
情報伝達スピードの速さに驚くと同時に 特定された人のことや周囲の人たちが中傷差別を受けることになりかねないことも思いました。
「よくないこと」と知らなければ 他人に話して差別の種を蒔き散らすことになるはずです。おそろしや おそろしや。
NHKテレビで「きょうの料理」を見ていました。私が追っかけしている土井善晴さんの時間でした。
テーマは「揚げ物」ということで3種類の総菜を紹介されました。
その中に「揚げ卵のお味噌汁」があり それを見ながら感じたことです。
土井さんのお味噌汁に対するご意見には共感するところがあり 関心があったのです。
私たちが日常にいただいているお味噌汁は 野菜などの具材が煮えたころお味噌を入れてひと煮たちさせたものです。
ところがこのたび紹介させれたお味噌汁は お味噌だけを鍋で温めてお椀に入れ そこに別のお鍋でつくった具材の揚げ卵を入れるというものでした。
一緒につくらないことは 今までの常識を覆すものでした。
その理由について「具材が生きて美味しいのです」とおっしゃっていました。
知らず知らずのうちに 一つのお鍋で一緒につくるものと思うようになっていたのです。
具材を生かして美味しくいただくのがお料理の目的としたら これも常識です。
一つのことに「常識」が複数あり 見方によって違うという発見でした。
有形無形の品物 あるいはサービスやシステムを手に入れて使う人の呼び名はいろいろあります。
ひとくくりにしてユーザーとして考えてみます。
なぜそんなことを考えるかというと お寺をどのように預かればいいか明らかにしたいからです。
世の中は次第に何を扱うお店なのか どのような仕事をしている会社なのかわかりにくくなってきました。
お魚や野菜がコンビニや道の駅で買えるようになっています。衣類のお店かと思えば 靴やスナックが並んでいたりしているのです。
そこにユーザーがやってきて その人たちの期待に応えようとして現れたお店であると思っているのです。
恐れ多い表現をしますが お寺は宗旨という専門商品に限定した活動をしてきましたが 放置しておけばお葬式屋になりかねません。
お寺というお店が出現したときから大きく時代が変わり ユーザーも激変しています。
「よりそう」という商品を扱うお店でありたいと思い始めているのです。
毎日毎日 大小の違いはありますが解決しなければならない問題がおこります。
即座に解決できる問題もあれば 時間や経費がかかる問題もありさまざまです。
問題が起きたときの対処について 人それぞれに自分の経験から身についた方法で解決されているはずです。
私は大小にかかわらず 時間がかからず簡単に解決できることから手をつるようにしています。
先延ばししないように心がけているのです。
時間とか経費がかかりそうなことの中には 時間がたって振り返ると必要でなかったこともあることがわかるようになりました。
早々と解決することができなくなって放置しているうちに 問題を忘れることも増え 問題が変わったりなくなってしまうこともあります。
そんな具合で 問題が山積みになっているというストレスを感じることは大幅に減っています。
今ごろは自分で課題をつくることが増え その中で問題を見つけその解決を楽しんでいます。
仏教で「一水四見」ということばがあります。
一つの水たまりを見ても 見る者によって受け止め方は違うものだというたとえです。
身近な出来事でそのことばを確認してみました。
今年は近くの浜辺でキスがよく釣れるという話を聞いていました。時期としてはそろそろ終わりになるのですが 今年はまだ釣れるようです。
そのキスを「息子がたくさん釣ってくるから 食べていただけませんか」と地域の人からいわれ 家人がいただいてきました。
数えてみると40数匹。
鱗落としは家人の担当で 並んで唐揚げ用に準備するのは私が担当しました。
「しごをする」といいますが 1匹ずつ頭をとりお腹を開け あとは調理をするだけにしたのです。
それをしながら 「頭をハネ 腸を抉り出している」といい直してみました。
いい直しながら地獄で獄卒に責められる姿と重なって 自分がしていることがどのようなことかを思いました。
空腹の人が見たら 「食べたいなあ」。
料理のプロなら 「なんと下手な仕事だろう」。
屋根上のカラスは 「隙があれば」。
閻魔さんは 「しっかり記録しておく」。
どんな受け取り方も間違いではないでしょう。ただ 閻魔さんがいらっしゃるかどうかは知りません。
山陰地方の地方紙『山陰中央新報』に原稿を送りました。掲載日は27日です。
そのテーマについて いろな考えが交錯しましたが 結局「コロナ禍の仏法」というタイトルにして書きました。
あらすじは 不確実な現実を諦めようという内容で 「諦める」意味と方法を書きました。
「涅槃」ということばは 大きく動いていた煩悩がゆるやかになったという意味です。
そうなると コロナ禍のストレスが少し収まります。
不要不急の外出を控えることや もしやウイルスを持ってる人ではないかという猜疑心が生まれてストレスになってくるのです。
いろいろな方々のアドバイスが出ていますが 仏教者からのアドバイスは少ないように見えます。
何かお役に立てたらと思う気持ちで 原稿を送りました。目にする機会があれば ご意見をお聞かせいただくとうれしく思います。
ストレスが軽くなれば暮らしやすくなりますから いっしょに考えたいと思うのです。
午後から 秋のお彼岸法要を営みます。私がお説教をする予定にしています。
10年くらい前まで 他所のお寺からお招きをいただきお説教に出かけていたことがありました。
そのころ どのような思いでお参りしていたのだろうかとか どんなお話をしていたのだろうかと思いを巡らせました。
お彼岸の意味をお話ししたり お浄土のことをお話しすることに終始していた覚えがあります。
いまでは 自分のお寺でお話しするだけになりましたが 以前のような専門的なことやことばの解釈はしません。
「なぜお経を読むのだろう」とか「それで何か変わるのかね」と 自分の頭の中で交わされる声を話しかけるようになっています。
日常を包み込んだ「非日常」の中で今生きていることを感じる時間になればいいと願うようになっています。
昨日 銀山街道にある「パン屋」さんに行きました。
大森町には5日前にも行ったのですが そのときにはお店のことを知りませんでした。
ドイツパンのことが話題になって 「ドイツパンってどんなぱんのこと?」とググっていたら このパン屋さんが見つかったのです。
入店制限があって 一度に3人まで。午後4時の閉店前だったのですが 4連休のためお客さまが多く 並ぶことになりました。
3種類のパンが数個ずつ残っていましたので そのうちの一つだけを買って帰りました。
夕食はドイツパンとハンバーグ。行列ができるパン屋さんといわれるだけあって 美味しいパンでした。
味にはそのお店ごとの味があります。それを噛みしめながら味わうことは楽しいことです。
そしてそれが好きな味であるか あるいは美味しいけれども 好みではないということがあるのだということです。
経文にある「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」を読みながら「自分は白が好きだなあ」とときどき思います。