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アーカイブ:2020年
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5月

過疎四苦八苦

オープンガーデン



メダカの水槽に入れる水草を買いに行ったときの話。

顔見知りの店主が 「バラが咲いたらオープンガーデンにされませんか」と家人に声を掛けてくださったそうです。

「オープンガーデン?」。

聞きなれないことばだったので帰りの車の中で家人に尋ねました。

「自由に庭に入って見てください」というお庭のことだと教えてくれました。

自分たちの庭は とっくにオープンガーデンだと思っていたのですが あらためて「オープンガーデン」と宣言しなければ自由に入れないらしいのです。

そういわれたら私自身も 「オープンガーデン」とか「ご自由にお入りください」という表明がなけらば 他人様のお庭にのこのこ入ることはできないことに気づきました。

知らない人の家の庭に黙って入ることは 不法侵入者ですよね。

他人の立場になって考えることが大切だということを学んだ一日でした。


 

 

専門は「光」



宗派の総元締めである宗務所から先日送られてきた『宗報』という機関誌を読んでいました。

巻頭言に ウシオ電機取締役相談役の牛尾治朗さんのことばがありました。

その中で 「私たちは『光』を専門として事業を展開しています。世の中に貢献するということでは 同じように宗教は『光』であると思う」と書いておられました。

私がおもしろいと感じたのは 宗教の専門は「光」であるという把握の仕方でした。

同じような把握の仕方でいうと 仏教の専門は「智慧」であると私は思っています。そしてお坊さんは「智慧」に気づき 「知恵」を深める人だと思っています。

最近特にそう思うようになりました。

仏法を聞くことによって人間の「知恵」は深くなると感じているからです。

世界を揺るがしている新型コロナウイルス感染状態や対応は 私たちが求めてきた豊かさの歪を考えさせてくれています。

経済対策とか働き方という当面の問題解決は考えられていますが その一方で真の豊かさを考えようという声が聞こえ始めています。

これこそ人間の知恵であり 深めなければならないことだと思うのです。


 

 

あじさいの挿し木



数日間かけて 我が家の庭を遮っていた杉や雑木を伐って すっかり見通しを良くしていただきました。

お寺の前を往来する車から 庭の様子が見え始めました。

庭の位置は一段高く フェンスには蔓バラが絡んでいるので全貌は見えません。

「そこにお花がありますよ」ということに気づいていただこうと 法面にあじさいを植えることを思いつきました。

ホームセンターで 母の日のプレゼント用に売られていた色とりどりのあじさいが しおれ始めて3割引きになっていました。

それを6鉢購入し 枝を伐って挿し木にして増やす計画です。

庭に続く法面に 青や赤白のあじさいの花が咲くことを夢見て挿します。



 

 

育ち



「氏より育ち」ということわざがありますよね。

それは人間の世界だけで通じる話と思っていましたが 杉の樹にも通じるようです。

伐り倒された杉を一目見た木材に詳しい人が 「この杉は使いものになりませんね」といいました。

切り口を見ると 中心部が濃い茶色になっていました。

成長が早かったために年輪の間隔が広く 密度が緩めなのです。

見かけは同じでも 柱としても板にしても使えないことは一目瞭然でした。

その方は 「田んぼに植えた杉は かならずこうなります」といわれました。

杉という樹木を植えることは 建材として将来の楽しみですが 枝打ちなどの管理がしやすい田んぼの杉は使いものにならないようです。

その話を聞いて思い出したことわざです。

杉の樹も人間も同じということは おもしろいですね。


 

 

笑う



いろいろなことを想像して楽しんでいます。

とくに今想像ているのは 歴史上で偉大なことを成し遂げた人々の「笑い顔」です。

微笑むような笑いではなく 「破顔一笑」もしくは 声をあげて笑う笑い顔のことです。

親鸞聖人とか弘法大師などの宗教者。あるいは聖徳太子とか織田信長などの為政者。

現代の人であれば トランプさんや習近平さんのような話題の人。

その人たちの日常生活の中にあるはずの笑い顔を まじめに想像するのです。

何かの意味があって想像しようとしているのではなく ただの遊びに近いのですが 人間味が感じられるのではないかと思って想像しようと思っているのです。

ところがいまのところ まったく想像できません。

偉大なことを成し遂げた人がそこに至る過程は 大きな目標実現への不断の思考であったことは想像できます。

その過程に笑い顔がなくてもかまわないのですが まったく笑い顔がなかったということはないと思うのです。

この場面ではきっと「歯を見せて笑っておられたよ」 という史実の場面があれば教えてほしいものです。


 

 

バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが



我が家のバラが見ごろになってきました。

咲き始めのころは 白いバラが多く咲いて 白と緑の落ち着いた感じでした。

連日の陽気で まずはピンク そしてオレンジや赤いバラがぽつぽつ咲き始めました。

あと一週間もすると アーチやフェンスに絡んだ赤いバラが 先に咲いていたバラの拍手で迎えられて登場するはずです。

80本くらいあるバラが 一斉に咲きそろう時期は なかろうと思います。

そう思うとバラはいつでも見ごろですが やはりもっとも花が多いときを見ごろとしてのご案内です。

どうぞ見においでください。そのとき私たちが家にいたら 一緒にお茶を飲みましょう。


 

 

仏教に求めるものは



この何日かのうち私が見たテレビで 仏教の話が数回続きました。

すべて瞑想の話題でした。

新型コロナウイルス騒動をどう乗り切ればいいかというところで 瞑想によって方向を見つけようという趣旨でした。

外国の人たちに禅僧の方が 瞑想する意味について解説されていて興味深く観ました。

私も仏教を学びましたが瞑想について学んだことはありませんでした。

ほぼすべてといってもいいくらい 宗教には自分で行う「行」があります。

懺悔とか祈り あるいは座禅とか瞑想といった行です。

ところが私が学んでいる仏教にはそのような「行」は一切ありません。行は否定され 自分で行うことは何もないのです。

いやいや正確にいうと 話を聞くという「聴聞」という行のような行為がありますが それを「行」といっていいかどうか。

恣意的に行うことではないので まことに心細い限りであり それが果たして「行」といえるかどうかというものです。

実態の存在がない「無」とか「縁起」から届いている必然の約束が聞こえるまで聴き続ける。そういうつかみどころがないような仏教なのです。

だから いざ困難な事態が生じたからといってあらためて何もすることはないのです。

他者に迷惑をかけないように 自分の都合による外出は控えよう。この事態は暮らし方の見直しと捉えてみよう。

あわてて何かをしなくても 「聴聞」によって そんな思いが生がまれる知恵は育つと思いますよ。


 

 

発言よりマスク?



お二人の女性と話した家人が帰宅して 夕食のとき話してくれたことです。

毎日のように報道される新型コロナウイルスのニュースを見ての話題でした。

小池東京都知事と安倍総理のマスクについての話です。

ときどきしか見ませんし そこに注意して見ていないので気づきませんでしたが 小池知事のマスクは毎日違うようです。

午前と午後と違っているときもあったらしいのです。

そして安倍総理のマスクはまったく変化がなく しかもそのつけ方が不細工だという悪評があったそうです。

「それは奥さんの責任だと思う」というと 「奥さんは自分のことばかりで 総理のことなど無関心なのよ」という反論も。

自粛生活で注意力が鋭くなったのでしょうか。

それとも 閑居していると「あら捜し」をしたくなるのでしょうか。


 

 

杉の木を伐採しました



バラとハーブを植えている庭の東隣に 5本の杉の木がありました。樹齢は50年くらいです。

60年前は同じ地域の人の田んぼでしたが 稲作をやめることになり 原野になる前に境界の目印として杉苗を植えられたのです。

年々成長した杉は 我が家の庭のそばで朝日を遮る大木になりました。

また原野一面にハゼとかクズがはびこり 次第に見苦しくなっていたのです。

しばらくは地主さんが管理に来ていましたが その方がお亡くなりになり すっかり荒れてしまいました。

このたび地主さんの家族に「草刈りをさせてください」とお願いして許可をいただき 刈らせていただきました。

あわせて杉の木の伐採も 「全部伐ってくださってかまいません」とあっさり許可してもらいました。

その許可があまりにもあっけなく 拍子抜けしたのです。

かって杉や松は 財産としてとても重要に扱われていたはずです。

過疎高齢化とともに 山々の杉も枝打ちする人がいなくなり スギ花粉の元凶としてお荷物になりはじめていました。

時代とともに あらゆるものの価値感が しずかに変わっているようです。


 

 

WASP



かなり以前のことですが 司馬遼太郎さんの本に夢中になった時期がありました。

そのころ読んだ1冊に 『アメリカ素描』という紀行本がありました。

その本に「WASP]ということばが書いてあり そのときはじめて「WASP」の存在を知りました。

「ホワイト」「アングロ・サクソン」「プロテスタント」の頭文字を組み合わせたことばで 私流の理解では「血統書付きのアメリカ人」という特権階級意識を持つ人を指すことばのようでした。

この意識は今でも 一部のアメリカ人には根強く息づいていることを感じます。

そのWASPの話のことをいま思い出したのは 浄土真宗に親しむ人には共通したアイデンティティーがあるのではないかと考えていたからです。

外見ながらユダヤ教徒とかイスラム教徒などに感じる アイデンティティーがあるのではないかと考えているからです。

浄土真宗では 教えを真剣に聞いて生活されている人々を「妙好人」と呼びます。

それもアイデンティティーではありますが 特権とか階級意識とか特異な生活スタイルはありません。

浄土真宗の教えから特権階級意識が生まれることはありませんが 篤信の人にはかすかな信念とか自立心のようなものは生まれているのではないかと思っているのです。