脳梗塞の発症で 突然ことばが不自由になったお坊さんをたずねました。
発病前であれば30分くらいで終わっていそうな内容の会話を お互いがもどかしさを抱えながら1時間かかって交わしました。
心情は十分に理解できますから 夫婦でていねいに会話をしました。
会話のなかで 「発病した○月△△日までさかのぼって考えてみても その日までのことと現実のギャップがどうしても納得できない」という話が出ました。
ご自身の苦しみの所在にふれたように思いました。
ふと「それは人間がかかえる業というものではないかねえ」と 感じたことを話してみました。
「業 業ねえ・・・」といって瞬時の沈黙が生まれました。
脳の中で生まれた思いが 思うことばにならないもどかしさを痛いほど感じた時間でした。
苦しいとか 情けないという気持ちも混じって伝わりました。
その人のペースで会話を進める時間を もどかしいと感じなかったことが不思議でした。
アルバイトを続け 正規の職についても長続きせずに転々としていた若者が応募してきました。
話によると結婚したい人がいるらしく その人の親が安定した企業で働いている人を望んでいると知ったようです。
それで応募してきたのですが 採用してみるとなかなかの好青年でした。
将来を期待してたのですが 一つだけ欠点がありました。遅刻が多いことです。
たびたび注意を受け 本人も自覚しているらしく遅刻しない工夫もしているようでした。その努力もあって 今年になってひと月以上無遅刻であったようです。
ところが今月になって初めて遅刻したとき 上司から厳しい注意を受けたといいます。
それで自己嫌悪のような感じになっていたところで翌日も寝過ごし 出そびれて午前中休んでしまったようでした。
自分のダメさ加減に嫌気がさしたのか 「これ以上ご迷惑をかけられないので 3月いっぱいで辞めよう」と決心したといいます。
ケジメとか周囲への影響を思えば そういう選択はあります。ところが 結婚したり高齢になって遅刻する人はありません。
人生や企業活動を長い目で見るとき ある時期には ブザマとも思えるような「泥臭さ」はあってもいいと思って励ましました。
「私生活も仕事も 趣味までもおもしろくないのです」という人がおられ その人のことを考えました。
いまは何をしても「熱くなれない」という思いを聞いたからです。
その人は優秀な人だろうと思います。仕事上の業績でも すばらしい業績を上げておられる人だと思います。そしてその自覚があり自信も持っておられる感じです。
そんな人がなぜそう思われるのか 考えているのです。
世の中には 簡単に解決できない課題があるのは当然ですが その解決策は課題によって一様ではありません。
身に着けた能力では解決できそうにない問題が生じることはまれなことではありません。そのようなとき 私たちは何を考えるのでしょうか。
執拗に取り組んで結果を甘受する あるいは解決をあきらめて逃げだす。
そんなとき評価されるのは能力の有無だろうと思いますが そうではないのです。
評価されるのは能力ではなく 謙虚さではないかと思います。素直に非力を他者にさらし 他者の意見を聞くという謙虚さとか勇気です。
「人間は自分の考えに行き詰る」という格言がありますが 考えを変えるおもしろさをおぼえたら「人生はとてもおもしろい」はずです。
数日前からお参りのときのお話を長めにしています。
理由は 話しの糸口を増やそうと思ったからです。
最初のとき 話しながら「今日は少し長くなるな」と感じましたので 次のお話のとき時間を計ってみました。
感じたように 5分くらい長くなっていました。
時間が気になったのは 聞いてくださる方々の集中力のことが気になったからです。
数回いただいた機会での反応は お話のつながりがスムーズにいったときは 集中力は保たれているようです。
当然ながら お参りの皆さんの年齢とか人生キャリアによっても違いはありましたが それは許容範囲です。
5分くらい長くなって およそ15分のお話になりましたが 自分の知識が増えたからではありません。
おもしろく話を聞いてもらえるために お話の糸口を数本増やしたからです。
集中力が続いたのは きっと皆さんがおもしろく感じてくださったからだと思ってすこし自信になりました。
花を植える準備を始めています。
肥料やスクモなどを入れ 土を耕しています。
数年ぶりに鍬を入れたのですが すっかり土が固くなっていて驚きました。
鍬を打ち込んで耕そうとすると 土の中にびっしりと根っこが伸びてひろがっていました。固くなっている原因は根っこだったのです。
地上の草花はすっかり枯れていますが 地中の根っこはすでに春の準備を始めていたのです。
あたらしいお花を植えるために耕しているのですが いままでの根っこをすべて掘り上げることはできません。
掘り残した根っこから どの場所にどんな花が咲くか 楽しみがふえました。
平安時代とか鎌倉時代に お寺の前を通る人々はその施設をどのような思いで見ておられたのでしょうか。
あるいは仏法の話をする集まりなどが行われていたのだろうか 行われていたとしたらどのような呼び名であったろうかと思いを巡らせています。
そのような建物や集まり つまり宗教に対する思いですが 市中の人々や武士や農民がどのようなイメージをもっておられたのかを想像しているのです。
特殊階級の人々しか覗けない特別場所であり 行事であったろうとは想像しているのです。
また そのような特別なものに参加する動機やきっかけは何だったのでしょうか。
覗けることになったとき どのような会話が行われたのでしょうか。
市中にお寺があることが当たり前のようになり お寺の行事の参加者があることも当たり前のようになった現在を見直すヒントを探しているのです。
昨日の天気予報の表示は 「雨のち晴」とイラストで表示されていました。
雨と晴の間に 何もなくていきなり晴というのが不思議でした。
お天気の変化はグラデーションのようになるのではないかと思っていたからです。雨雲が去ったあと いきなりお日さまが出るとは思えなかったのです。
まず雨がやんで しばらく曇り空があって そして雲がはれて日が差してくる。そんな感覚でした。
考えてみたら 雲が切れ始めてお日さまが顔を出すことはないことではありません。
それを雨マークとお日さまの二つのマークで表現されているとしたら じつにみごとな予報だと思います。
一方で「それはないだろう」と思っていたのですが 納骨のときは大荒れの天候で 終えてお寺に帰ったらすっかり晴ていました。
天気予報の表示を信じることにします。
ふと 「生きるための必需品」は何だろうと考えてみました。
なぜそんなことを考えようとしたかというと 暇だからです。
いや暇に加えて 生きていくために宗教は必要なのだろうかと お坊さんにあるまじきことを考えていたからです。
生きるために 日常の生活にとって必要なものは何だろう。
さらに よく生きるために必要なものは何があるのだろうか。いや生きるためだけでなく 死ぬことのためにも必要なものは何だろう。
そんなことを考えてみても 宗教が必要だという鮮明な答えが見つかりにくいのです。
考え方を変えて 必需品のように身近に置くものとして考えるから見えないのではないかと思い あらためて探してみました。
宗教を道具とか教養のようなものと解釈しないで すでに私を包んでいる空気のような真実と解釈してみたのです。
そうしたら 必要か不要かという二拓の問いかけが間違っているように感じられてきました。
宗教は 私を人生という今のステージに登場させ 役目を終えたら次のステージに導く働きのようなものと思えてきました。
そう思ったとき その中の今を感謝しながらていねいに生活する知恵が宗教ではないかと思えてきました。
おもてなしで「コブサラダ」を作りました。
おもてなしとして作るのは2度目のことになります。ずいぶんおいしくできていました。
水っぽくなるトマトを減らし チーズは歯ごたえがあるゴーダチーズに変えました。
また具材の切り方も小ぶりにして食べやすくなりました。
初回のとき このサラダを極めるために 次回も作ることに決めていました。そしてそのことをスタッフに伝えていたのです。
昨日スタッフの一人が 「我が家では 翌日から毎日作りました」と家人に報告したそうです。
思わず「ご主人から苦情はなかったのだろうか」と疑問を口にしたら 「おいしいといって食べてくれている」といわれたそうです。
おもてなしは 作るスタッフもそのご家族もハッピーにしてくれたようです。
よかった。
しばらく耳にしなかった「はなまる学習塾」の話題を目にしました。
井本陽久さんという 型破りな数学の授業をされる先生の紹介で名前を耳にしたのです。
井本先生も その学習塾で教えておられるという紹介があったからです。
「はなまる学習塾」は高浜という先生が主宰されておられ 私たちがイメージする進学のための塾とは違っていました。
ひとことでいえば型破りの指導で 子どもたちに問いを考えさせ そして広げさせていくという指導と感じました。
その根底には 子どもの力を信じ 子ども一人ひとりへの愛情があると感じました。
子どもたちは 自分自身で答えを見つける道を探していました。
道を探すことを通じて 考える楽しさを学んでいると知りました。