試合前に ニュージーランドラグビーチームが行う 「ハカ」という演技が人気になりました。
相手側のチームは その演技にたいして敬意を表するように 一列に並んでじっと見ています。
ところが準決勝で対戦したイングランドチームは 横一列でなく 包み込むような扇型になって迎えたのです。
三角になって演じるハカは この体型を前にするとエネルギーが分散されてしまうようになります。
イングランドチームはそれを狙って陣形を組んだというわけです。
この出来事に対し 連盟という運営組織内部で罰金が検討されているとか。
試合前の儀式と思うのですが これは勝負に向かうチームの戦意とフェアー精神を高揚する手段と認識されている感じです。
イングランドチームには ハカのような儀式はないようですから一方的に迎えるだけになります。
そのために敬虔な迎え方として さらに勝負の序曲として考えることも間違っていないと思います。
ラグビーというスポーツがもつ 勝負の深さを感じました。
カーラジオを聞きながら口笛を吹こうと思いました。
口をしぼめて 吹いてみたのですが音が出ません。
なぜだろうと口の形や息の出し方を工夫して 何度も試みました。
少しづつ音は出るようになったのですが 曲にはならないのです。
息を強く吐くと 音が消えてしまいます。入れ歯に当たる舌の動きがぎこちないので 曲がスムーズに出ません。
しばらく試みましたが 入れ歯をしたら口笛を吹くことを放棄しなければならないと諦めました。
口笛吹きを捨てることで 口笛が上手な人に出会ったらほめてあげることができると思うようにします。
「捨てる」行為の意味を考えてみました。
断捨離とか終活 あるいは身軽でシンプルな暮らしといって ものを捨てることばを聞くことが多くなったよに感じています。
たしかに捨てると気分がすっきりして 自分が新しくなったように感じます。
捨てるという行為は ちょっとだけ深く考えると 過去を捨てることです。
まだ使えるとか いつか役に立つと思うとらわれを手放すことでもあります。
そしてそのやり方を工夫した体験の積み重ねが 人を賢くするのだろうと思います。
不要になったものを捨てるということから 誰かの役に立つから「上げよう」という積極的な捨て方ができるようになると そのものが生きることになり 世の中がおもしろくなると思いませんか。
仏教には喜捨という明るいことばがありますが さりげなく使えるようになりたいと思っています。
本堂にお供えするお花を探しに裏の原っぱに出たときのことです。
原っぱに降りる道に出ると そこは一面に土が掘り返され大変に荒れていました。
いのししの仕業です。土の下にいるミミズを探して 鼻で掘り進んだ跡なのです。
その光景は 道の両側とか原っぱの面積を累積すると 小さなこども園の園庭くらいはあると思えました。
一頭の仕事とは思えず 足跡を探しましたがわかりませんでした。
おそらく家族揃って夕食にやって来たのだろうと思い 数頭が下を向きあちこちを掘る様子を想像してほっこりしました。
これが自分の畑を荒らされているとしたら やりきれなかったと思いますが。
「資格三原則」ということばがあります。
私がかってに造ったことばですが いろいろな有資格者が社会で問題をおこしていることに腹が立っているのです。
運転免許者があおり運転をしたり 教員資格者が仲間をいじめたりするような事件です。
高齢者や障碍者を虐待する介護福祉士や お坊さんの資格をもって高額な戒名料を要求することも許せません。
専門分野ごとに 世の中を楽しく安心して暮らせるようにするために資格があるのですが 原則を忘れる人たちがいるのです。
三原則の一つ目は 資格は生き物であるということです。育て方が悪ければ腐ります。
二つ目は資格は道具であるということです。上手に使えば楽に仕事ができますが 使い方によっては凶器になるのです。
そして三つ目は 世間が資格の持ち主の評価をするということです。資格があるからといって 特権意識をもたないことが大切です。
仏法の話を聞きたいと思っておられる人は 多くはないものの 決してゼロではないと思います。
いきなり決まりことばで 仏教のセットをお話しても伝わりにくいと感じています。
伝えようとする側には やさしく話せば伝わると思っていますが それは錯覚に近いのではないかと思っているのです。
ではどうしたらいいのか。
自分が受け取った仏法の実感を話さなければ 聞く人の心に届かないと気づいたのです。
会席料理のセットのことを どれほど丁寧に話してもその美味しさを伝えることができないことと同じと気づいたのです。
食事をいただかれた人から 「食材の味を生かす味付けが最高!」「目も鼻も舌も楽しませてもらったよ」と話されるのを聞くと 自分も食べてみたくなります。
「百聞は一見に如かず」と同じように 「百聞は一験に如かず」です。
一日人間ドックに行ってきました。
ほぼ隔年で同じ病院で受診します。そこには過去のデーターが残っており 何かと比較できて変化がよくわかります。
忘れていましたが いつか「水虫があります」ということを申告していたらしく その記録もありました。
脳ドックとか胃カメラ あるいは心電図などの診察と同じ感覚で 「水虫の治療はどうされていますか」という質問を受けました。
「ほぼ治ったので現在は治療をしていません」と答えながら 健康とは足の先にいたるまで身体全体が健全であるかだと気づきました。
死に至るような兆候の診断だけではなかったのです。
「特に問題はありません」といわれ まずは安心しています。
近隣の集落にある神社でのお祭りが続きます。
お宮もお寺と同じように 過疎化によって維持が厳しくなっているとお聞きします。
準備をする人手の確保や 参加をしやすくするために 行事は週末に集中しています。
隣り合った集落では お祭りを交互に開催する工夫も行われています。
あれもこれも 過疎と高齢化による変化です。もはや一つの集落でお宮を支えることが難しくなりました。
お祭りでかならず行われていた神楽は お祭りが行われない神社から離れ いろいろなイベントのアトラクションとして存続と伝承の試行錯誤が行われています。
時代に合わせ変化することは必要ですが 神楽に込められた神話については正確に伝えてほしいものです。
フラダンスと同じように 民族の文化として存続させてほしいと思っているのです。
掃除のことについて 特別に考えるようになっています。そしてその掃除が身につきつつあるような実感もあります。
そのきっかけは お掃除のプロの仕事が紹介された放送を見たことにあります。
そのお方の紹介は二回目になりますが リクエストか再度紹介したくなる何かがあったからに違いありません。
中国の残留日本人孤児であった主人公の 真摯な生きざまと掃除への真剣さに惹かれ 強力な刺激を受けてしまったのです。
当たり前すぎて 笑われるような事実ですが 掃除をしたら手が汚れます。手を汚すことがうれしくなったのです。
床やガラス窓 本棚や部屋の隅っこなどがきれいになることによって 自分のこころまでもがきれいになるように感じ始めたのです。
といっても 潔癖性のように行動しているわけではありませんが 片付けもおろそかにできなくなりました。
片付けながらものを減らすことが 終活にもなると気づくと これもうれしいことです。
「掃除をし続けると人生が変わるよ」と シュリハンドクというお弟子さんに教えられたお釈迦さまのおことばは 私にもいわれていると思っています。
京都での集まりで考えさせられたことがあります。現実に向き合う姿勢のことです。
前例にしていたことを破るいくつかの試みを実行して 大事なことは身近なことであると気づきました。
たとえば集まりのときにいただくお昼ごはん。どのようなお弁当にするかを考え始めます。
法要について考えると 儀式としてのセットメニュー。宗教に近づいていただくことを考えると その大切さをつたえる話題とか雰囲気の創造。
前例にならわない姿勢で 思いつきをいくつか実行してみたのです。
まず炊きたてのブランド米「ツヤヒメ」と 地元で漬けた漬物 かまぼこのお昼ごはんは好評。
「お代わりをどうぞ」と声掛けしたら お椀をもってお釜のとへころまで行って並ばれる光景まで出現していました。
漬物とかまぼこといういう質素なメニューが ご飯の味を引き立てたようで 故郷のブランド米のPRもできました。
「死に方」あみだくじをして人生の無常を意識していただくなど 会の雰囲気はとても和らいでいました。
何人かの人から「近所の子どもや 孫も連れてきたい」という声が聞けたことは きっと楽しかったからだと思います。
現状はかならず変えることができるという感触をいただいた集まりでした。