明日は「永代経法座」というお寺の行事です。
読経とご法話 そしてお寺ごはんのお蕎麦もいただきます。
毎回の法座に「お寺ごはん」をお出しするようになって一年になります。お参りの皆さんがよろこんでくださるヒット商品になりました。
法座にはそれぞれ名前がついていますが 名前の重みが薄れてきています。
お盆にする行事は「お盆法座」。お彼岸に行うのは「お彼岸法座」。またお釈迦様のお誕生日にお誘いするのが「花まつり」というように すべての法座に名前がついています。
それぞれ暦に合わせてつけられた名前ですが お彼岸もお盆も仏教から生まれた名前なのに 現在では休日の肩書にすり替わりつつあります。
ただ明日の「永代経法座」だけは暦とは無関係で 開店セールとか創業記念日といった 意味を名前にした行事です。
「大切な人のご恩を 忘れないように追憶したい」と有志が話し合って誕生した行事と考えたら腑に落ちます。
ネ
バネバ食感のお料理です。
28日のおもてなしに準備されていました。
山芋とか納豆 ツルムラサキやオクラなどネバネバした食材を使ったご馳走でした。
のど越しの良さ消化の良さで 夏の食事としてうれしいおもてなしのお料理でした。
メニューを考え 調理してくださったスタッフの皆さん ありがとうございました。
カーラジオを聞いていたら 通りで見かけたお寺の掲示板のことばのことを紹介していました。
それは 「ハードルは高ければ高いほど くぐりやすい」ということば。
紹介したアナウンサーが 笑いながら「いいねえ」と感心して話しました。
こんなことばを創作したのは きっとお坊さんですね。
「とらわれを離れたら 障害なんて簡単に抜けられる」と話しかけられているようです。
それにしても名言ですねえ。
ハードルといえば超えるもの。誰もがそう思っています。ハードルの向こうに行くためには スポーツ競技でもない限り 飛び越えないでくぐてもいいはずです。
幼い子供なら すいっ~とくぐってしまします。
とらわれることの愚かさを知った人なら 「何を難しく考えているんだね。くぐればいいんじゃないか」といわれるはずです。
名言は とらわれの少ない人によって創作されます。

完熟トマトをいただきました。
農家では お店に並べる数日前に採取するそうですが この日は完熟したものを採ってきてくださいました。
完熟前に採ったトマトもお店で買ってきて食べ比べました。
それぞれに食感とか甘さに特徴はありましたが どちらもおいしく思いました。
人それぞれに好みがありますから 美味しいとか美味しくないという評価は好みとして聞いておきましょう。
病院の中を歩いていると お身体が不自由になられた人を見かけます。
その姿から ふと将来の自分を想像することもあります。
それでも「そうならないように 今のうちにしっかりケアーを」という思いは浮かばないのです。
これから食べ物に気をつけようとか ストレッチで鍛えようといった思いは浮かばず 今を大事にしようという漠然とした思いしか浮かびません。
「なぜだろう」「どういう意味?」と考えて思い当たったことがあります。
今後何がおこるかわかりません。どのようなことで どこでお世話になるかもわかりません。わからない未来の姿をマイナスイメージで描く習慣がないのです。
未来に繋がっている今ですが どうやらプラス思考でしか考えない生き方があるからだと気づきました。

我が家のイチジクの初物です。
4本植えた木の1本に見事な実がなっていました。
これは花イチジクといわれるもので 予告品でしょう。
他にもたくさん実をつけていますが まだ青くて食べられません。
「初物をどうぞ」と 樹からの贈り物です。
家内と半分っこに ありがたくいただきました。

我が家でニガウリを収穫しました。
テラスの前にプランターを置き 2本の苗を植えて育てたものです。
どうやら今年は14個収穫できそうです。
早速2本サラダにしていただきました。
そのあとは佃煮にしようと家内はいっています。
食べる喜びはもちろんですが 育てる歓びもいいものです。
ふたつのよろこびが重なることを「歓喜」というのでしょう。
「史実の欠片を集めてストーリーをつくる」。
司馬遼太郎さんが 「歴史小説家の視点」というお話の中で語られたことばです。
歴史小説家ではありませんが いま私も同じようなことを行っています。
通夜は 「追憶と気づきの場」という位置づけにして明確になった作業です。
故人が残された事実は 多くの人にとって周知のことがたくさんありますが その背景にあったものは 人間のサガとか時代や風土という環境です。
その事実とか真実に合わせて 個人を追憶することによって 新しい自分との繋がりがあったことに気づくことが出来ます。
ウソ話をするのではなく 事実を見直すことによって 新しい故人と再会していただこうと思い 事実の欠片を集めます。
いままでとは違う何かをするとき 自分がやろうとしていることについて 学問的とか科学的な裏付けは必要に思います。
お葬式とかお墓参りを大切にしようとしている人のことを 心理と仏教の教えから きちんと評価したいと思い始めたからです。
他力という宗旨の原理からいえば お葬式や熱心なお墓参りの結果で 故人が救われまた自分も救われるのではないという理解があります。
その事についての裏付けは 専門家の学問によって無数に繰り返されてきました。
ところがそれらはあまりにも専門的で 多くの人々には理解できないものであり 信仰の姿に近づくことが難しいのです。
家族葬で葬送を終えようとする思い お墓参りで供養をしているという思いを認めることから始めたいと思っています。
いまその裏付けはなにひとつありませんが 見えない繋がりが捨てられないという人間の行動の意味を 宗教心として評価してお話ししようと考えています。
世界には196の国があって 国ごとのリーダーの考えと発言によって国民は動きます。
国民全員が動かなくても 過激な国民の行動は その国を代表するようになって 国同士とか国内の衝突がしばしば起こっています。
その途中で 人命が失われることもありとても悲しいことです。
このような状況は 一人のリーダーの考えと発言によって生じているという見方が出来ると思うのですが そう思うとリーダーの責任はとても重いものです。
もちろんリーダーひとりがワンマンとして発言しているわけではありません。周囲の賛同者や ときには反対者の存在なども意識しながらのことになりますから複雑です。
ところが人々は リーダー一人に注目しがちです。
仏教は「縁起」ということばの通り すべてのモノは 縁によって生じ変化すると教えてくれます。
すべてのリーダーの発言も例外ではないと考えています。
何ごとについても 自分の思い自分の国の意見を通そうとすると かならず反対の思いや意見が鮮明になり 対立が生まれます。
家庭内には家族ごとに思いがあり 世界には196の国ごとに思いがあるのです。
問題解決の道は その思いを本音で話し合い ひとつずつ理解しあうこと以外にはないのです。