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アーカイブ:2019年
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7月

過疎四苦八苦

家族葬の定義は



「家族葬」と呼ぶ葬儀が スピードを上げて増えています。

今月になってお知らせを受けた訃報は すべて「家族葬で営ませていただきます」であした。

お見送りに来られた人が 地域の数名を加え8人のときや 家族だけの7人のとき。

昨日は 地域の人にも伝わって30人くらいでしたが それでも「家族葬」でした。

家族葬の定義を厳密にしなければならないわけではないのですが 自分の頭の中で「家族葬」ということばの意味が分からなくなったのです。

家族葬に共通した情景から判断すると まずお坊さんは一人です。次に受付に立つ地域の人の姿がありません。

生花や盛籠も 兄弟一同とか孫一同から2対まで。弔辞とか代表者焼香もありません。

このような様子を見ていると 「家族葬」の本質は あえていうと「縁切り葬」ではないかと思いたくなります。


 

 

一発逆転を考えない



いろいろなことに 一発逆転ということがあります。

野球では9回の裏 2アウト満塁で一発のホームランが出て逆転するときがあります。

めったにないことなのですが 過去には何度もあって 応援するチームのときはそれを期待します。

そういう事実がないわけではありませんが それを考えるより 1点ずつ得点を重ねていくことに集中することが早道であると思います。

2アウト満塁でなく2アウト2塁であっても どの球を狙ってバットを振るかに集中することが大切なのです。

とくに事業においては 一発逆転ということを期待しない方がいいと思います。

お寺を取り巻く状況では 家族葬を希望される人が増えました。法事を省略される人も増えています。あるいはお墓をお寺に預けられる人も増えています。

当事者がかかわりを減らそうとする意識の表れに違いありません。

このような意識を変えることは 9回の裏の2アウトから 10点差をひっくり返すより困難な事態です。

日常の小さな出会いの機会を生かすことを考え 日頃からその場に集中できる訓練をしておきたいもです。


 

 

精神力のこと



高校野球甲子園大会の島根県代表に 地元の石見智翠館高校が出場します。

おめでとうございます。

昨日行われた決勝戦で 延長13回の接戦を制して優勝しました。

広島に向かう車中 途中経過をスマホで確認していました。

13回に相手チームのホームランで2点勝ち越されたとき 「負けた」と確信し それ以後の結果を見ることはしませんでした。

今朝の新聞で「サヨナラ勝ち」という見出しを見て 高校野球のドラマを見たような気がしました。

インタビュー記事の中で 監督さんが「精神力が成長した」とコメントされていましたが 精神力という力の現実を見せられた気がしました。

神奈川県では 決勝まで勝ち残った強豪同士の試合で 24対1という事実がありました。

コールドゲームが適用されない試合だったようで 9回まで試合が行われたのですが 選手や監督さんたちはどんな気持ちで臨んでいたのだろうと推察していました。

同じ日の二つのゲームから 「精神力」のことを考えました。



 

 

ビール祭り



暑さとともに あちこちのイベントで「ビール祭り」のような催し案内のチラシを目にします。

私はお酒が飲めないのですが いろいろな楽しそうな企画には関心があります。

先日近所の商業施設で わりと大がかりなイベントが開かれました。

会場には北海道や鹿児島など 全国から5社の地ビールメーカーが参加して 売り場の前にはお好みのビールを飲みながら談笑する人たちで賑わっていました。

飲酒したら運転は出来ないので ビールを飲んでいる人たちは家族連れだろうと思いました。

道の駅などで開催される アルコール飲料を出すイベントでは 乗り物のことを考える必要があります。

このたびのイベントは その不自由さを思わせない楽しい企画でした。 

 

 

 

原点に返る



「原点に返れ」という話は 初めて聞くような話ではありません。

いろいろな場面で耳にすることばですが 忘れやすいことばでもあるようです。

今やっていることがうまくいかなくなったときとか 何を目標にしたらいいかわからなくなったときに 初心に返ることをすすめることばです。

「自分は何を目標に生きればいいか」という大きなテーマに迷ったとき。あるいは「頑張っているのに成果が上がらない」という目先の課題に苦しむときもあります。

ときには初心とか原点があいまいで 成り行きで行動を続けて行き詰っていることだってあります。

いつの間にか家業を引き継いだときなど 「初心に返れ」といわれても思いつかないのです。

その場合は いちど「今の仕事を続けるか否か」と 原点に返ることから始めることになります。

もし続けようと思うなら 「なぜやろうとするか」ということが原点です。

こんなことを思ったのは 若いカリスマ理容師さんが 「理容師の仕事は お客さんの人生を変える仕事」という話をしていたからです。

「人生を変える」ということについては お坊さんも同じことをしているのではないかと思います。

私はお寺の長男として生まれましたが 後継ぎとして生まれたわけではなかったはずです。

いつのころからか後継ぎになると決心したのですが その原点は「人生を変えるお役に立ちたい」と自覚しました。


 

 

蝉はどこへ行った




一日だけ聞いて しばらく途切れていたヒグラシの声が また少し聞こえ始めました。

この時期であれば 日中にはアブラゼミとかニイニイゼミ あるいはクマゼミなどの鳴き声が降るように聞こえてくる時分です。

夕方にはヒグラシが周囲の山々で 競い合って鳴いているはずなのです。

ところが今年は ヒグラシ以外のセミの声は全く聞こえません。

たまたまカーラジオで 旭山動物園の元園長さんが「今年の夏は北海道でセミが鳴かない」と話しておられました。

島根だけの現象ではないようです。あえて原因を知ろうとは思いませんが 少しさびしさを感じます。

そして 蝉の声が話題になっていないことにもさびしさを感じています。


 

 

「穴埋め」ということ



今日から夏休みをいただき 沖縄に行く予定でした。
沖縄で2、3日ぼんやりしようと思っていたのです。

台風発生の心配をしましたが どうやら大丈夫そうなのでチケットやホテルの再確認をしていました。

すでに何度か行って名所の観光はしています。まだ一度もしようとしなかった「なにもしない」という時間を体感しようと考えていたのです。

ところが お世話になっていたお方がお亡くなりになって 通夜と葬儀の日程と重なることがわかりました。

ときどきあることなので 頭の切り替えは出来ましたが ポッカリ空いた日程の穴埋めがまだ出来ません。

ひごろ課題をもっていないという受け止め方もあります。あるいは常に少しづつでも実行しているから課題がないという受け止め方もあります。

あれこれ考え 予定している行事の準備に時間を使おうと思います。



 

 

なぜ泣くの



芸能関係会社の社長さんが記者会見をしたという報道がありました。

その後で その様子を伝える報道が いろいろな媒体を通じて行われていました。

それを聞いているとき 社長さんが謝罪しながら泣いておられる様子でした。

この会見が行われるいきさつについて 私の理解では泣いてお詫びするような内容はなかったと思っていたので不思議でした。

「泣く」動機はいろいろあってかまいません。立場や人ごとに違いがあって当然です。

「もらい泣き」「うれし泣き」「ウソ泣き」「感動の涙」「悔し涙」「悲嘆悲痛の涙」「別れの涙」「お詫びの涙」などたくさんあります。

泣く立場と思えない人が泣いている 泣く場面でないところで泣くと 下心があるのではないかと思ってしまします。

泣くほどの状況でないときは 過ちを和らげようとするジェスチャーのようで醒めてしまいます。

ビジネス上の過ちを犯したということであれば 撤回したりあらためたらいいことです。

その過ちによって人の心を傷つけたことに気づいたなら 誠心誠意丁寧にお詫びすしたらいいと思うのです。

人前で泣くことで その人の人間性が見えるように思います。


 

 

若い人を見る目が変わった



自分が高齢になっているという自覚とともに 若者を見る目が変わったように感じます。

その自覚がないときは 「まだ若いなあ」と経験が浅いことを指摘したり 夢を追っかける姿に危うさを感じていました。

ところが最近 さまざまな分野で夢を追っかける若者を見かけると 「いいなあ がんばれよ」と思うようになったのです。

自分の人生経験や世の中の動きから思うと 徒労に終わると思うような課題を見つけて挑戦している人がたくさん目につきます。

「絶対成功する」という自信で 突っ走ろうとしているのです。

今どきの若者と 私が若者であった頃の若者と 若者の特性に違いはないはずです。

挑戦する夢の内容や それを実現する環境は変化していますが 達成するための難度に変わりはないと思います。

若者の行動を一段と客観的に見ることができるようになり 若い人の挑戦を素直に称賛できるようになりました。

そのうえ 素直に刺激も感じるようになりました。


 

 

こんな暮らしがあったなあ

法事のお参りのあと 皆さんと一緒に食事をいただく機会があります。

それは「お斎」といって お参りされた人に接待される食事です。

昨日はそのお斎を近くの旅館でいただきました。その席に 二人の小さな子どもを育てている若い夫婦が参加していました。

食事が始まってしばらくたったときです。

ふと末席の方に目をやると 若いお母さんが子どもをおんぶして立ったまままで何かを食べている様子が見えました。

そのとき何度か目にしたことがある 遠い昔の光景を思い出しました。家事に忙しい主婦の人たちが 子守をしながら洗濯をしたり炊事をする姿を見ていたのです。

大勢で食事をいただく場でそのような光景を見かけたことはありませんでしたが 子どもをおんぶして立ち食いをしている姿は見かけたものです。

周囲に子どもがいなくなりました。ご家族で法事を営まれることが減りました。法事をおつとめされるお宅が次第に減っています。

偶然見かけた光景が 70年くらいの昔の暮らしを思い出させてくれました。