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アーカイブ:2019年
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6月

過疎四苦八苦

夜の景色



錦市場の中にあるお店で夕食を終え 夜の市場通りを歩きました。

外国の観光客は歩いていましたが 昼間の賑わいはなく人通りはまばらでした。

多くのお店は 入間のゴミを店の前に出しシャッターを下ろしていました。

注意深く見ると そのシャッターに絵が描いてあるのです。それはすべて伊藤若冲の絵でした。

市場の中に「斗米庵」という料理店があります。

そのお店の人の話を聞いていたので シャッターを下ろした後の錦市場が 若冲美術館に変身する理由がわかりました。

若冲の絵がまだ認められなかったころ 描いた絵とお米一斗を交換してもらっていたことに由来して名付けられた店名と聞いていたのです。

京都人の奥の深さに触れたような思いがしました。京都はまだまだ未知の都市です。



 

 

「生きる」ってどういうことなんだろう



研修のためにお寺に来られる人の履歴書や その人への期待について読みながら考えたことです。

企業とか家庭 あるいは個人にしても 今日一日を漠然と生きてはいません。

何かを手に入れようと考えたり 何かを目指して行動していると思います。

研修では 「やがて死ぬ身であるのに なぜそんな行動をするのですか」と自問することをしてみたいと思うのです。

気の利いた答えを懸命に探そうとしたら どんな答えが見つかるでしょうか。

「生まれたからには 育てていただいたからには 社会や次世代のために何かをするようになっている」という答えがあります。

他方では 「一度かぎりのいのちをもらったのだから 生んでもらってよかったと満足するために生きるのだ」という答えもあります。

積極的に生きようとする人や 成り行きを重ねながら仕方なく生きる人もあり 実にさまざまです。

人はそれぞれその場そのときの出会いによって 自在に方向を変えながら生きています。

そしてその出会いのときの選択が 今になっていることは間違いありません。もしその今が 満足で感謝に満ちていたら そのときの選択基準がそこに導いたといえます。

そのとき自分が持っている選択基準はどのようなものであったのか。

それを自覚することと もしあらためたいと思ったなら 何をどうあらためるかを考える。

それが研修という時間なのだと思ったのです。


 

 

梅雨入りしたそうです



中国地方が梅雨入りしたと報道されました。

とっくに梅雨に入っていると思っていたのですが 気象庁からの梅雨入りの発表はお預けでした。

10日くらい前から雨模様で蒸し暑い日が続いていたので 梅雨になっているとばかり思っていたのです。

何度か「もう梅雨に入っていますよね」と周囲の人に話したのですが その都度「まだ梅雨入りの発表はありませんよ」といわれていました。

気象庁は 梅雨前線が近づいたかどうかという気象状況を見て判断されるようで 生活感覚では断定されないようです。

目くじらを立ててあれこれいうつもりはありませんが 生活者は感覚で判断してもいいのではと思っています。

梅雨になると雨が降り蒸し暑い日が多くなるという感覚。稲が育ち蛍が飛ぶという風景。初物のそら豆や桃を食べる暮らし。

そんな生活を体験するようになると 私の体感ではすっかり梅雨なのです。

気象図で判断する梅雨ではなく 体感で判断する梅雨に合わせて暮らしています。

今朝から 大阪に出かけますが大雨のことは心配です。
 

 

 

そのとき協力者は何を考えたのか



逃亡していた指名手配の容疑者が逮捕されました。

逃亡してからの逃走方法や資金などについて 逃亡協力者の存在が次第に明らかになっています。

協力者は友人とか知人という報道で 男女の複数が協力していた様子です。

やがて協力者の全貌は報道されるでしょうが まず知りたいことは 友人たちが指名手配されていることを知っていたかどうかということです。

知らなかったというのであれば 相当な世間知らずの人たちに思えます。逃亡してからの時間を考えると 知っていながら協力したと考えます。

さらに協力することが逃亡に加担した罪 かくまった罪にあたることも知らなかったとは思えません。

としたら断れなくて協力したか あるいは積極的に協力したかのどちらかになります。その背景には それまでの付き合いの深さや利害関係があるのでしょう。

その中の一人が 容疑者の居所を通報したようですから その人の思いにも関心があります。それらを知ることによって 人間のつながりがどのようなものかを知りたいと思います。

私の友人なら私に協力を求めてくるだろうか。そしてそのとき私はどうするだろうかも考えて見たのです。 


 

 

失敗なのか変化なのか



書家の石川九楊さんというお方がおられます。

このお方のお名前を知ったのは 料理研究家の土井善晴さんのツイッターでした。

調べていると 2年前に糸井重里さんと対談をしておられることを知りました。

その対談を読んでみると 記事の中に 「手がけた作品を反故にするのはどの時点でしょうか」という糸井さんからの質問がありました。

石川さんのお答えは 「筆を下ろしたときです」でした。そして「それは失敗ということではなく これまでの自分の書にはなかった 新しい書が生まれているということかも分からないのです」という意味のことを話しておられました。

読みながら 「失敗と思うことが それは変化の姿でもある」という受け止め方があることに気づかされたのです。

書でいえば すこし手が震え不本意な文字になった感じても それは新しい境地が生まれたと解釈できるといわれるのです。

日常生活で歩行がおぼつかなくなって情けなく思うときは 歩みをゆるやかにする暮らしが始まったと受け止めたらいいということでしょう。

失敗をすべて反故にするのではなく そこに未来を発見しなさいと承りました。 


 

 

履歴書を読みます



仕事として履歴書を見る機会は少なからずあります。

回を重ねていると わずか一枚のペーパーからいろんなことがわかるようになりました。

履歴書の記載事項は限られていますので 注意深く読みます。内容はもちろんですが 文字の書き方やクセについてもしっかりと見ます。

そして想像力をフル回転して その時その場所でどんなことを考えていたのか推理します。

個人情報保護ということから 採用不採用に関係がない記入事項は一切ないのですが それでも記入されている学歴とか職歴から推理を試みます。

その推理の正確さを高めるのに役立つことは 自分が周囲の人とどれだけ深く関わってきたかという経験です。

かかわり経験は人によって違いますから 違う人の推理も参考になります。利害関係でなく 人間性を中心にかかわってきた人の意見は 特別に役に立ちます。

そうではいっても やはり直接お目にかかり 本人の話を聞かないと人物は見えません。

記載事項を読み 本人の話を聞くことの間にドラマがあるように思っています。


 
 

 

「あなたがやろうとすることはトークショーだよ」



「あなたがやろうとしていることは トークショーだよ」と友人にいわれました。

友人に 「お説教を聞いたあと 第二部として対話をしようと思っている」と その内容を話したときの感想です。

そのとき聞いた「トークショー」というものがどんなショーなのか はっきりイメージ出来ませんでした。

気になりながら時間が過ぎてしまって やっと調べることが出来ました。

友人が話してくれたトークショーは 芸人とか文化人など 一芸に秀でた人の堅苦しさがない講演会というイメージが浮かびました。

そこで真っ先に思ったことは 内容が濃い仏法の話を 軽くて親しみやすいトークショーの舌先に乗せていいものだろうかという不安でした。

しばらくあれこれと思いを巡らせ 「ま 一度やってみよう」と持ち前の挑戦心で始めることにしました。

今まで一度も考えたことがなかったこころみです。ショーとして考えるからには あらかじめシナリオを準備をして練習しておくことも必要になります。

どこかに真似が出来るサンプルがないだろうかと思いましたが 見当たりません。お説教の中に 泣き笑いをセットしたお話しは何度もお聞きしましたが 似ているようでもトークショーではありません。

トークショーのお話しの中心は その人の人生とか人生観であり視点なので勝手が違います。

仏法に親しんでいただく新しいこころみとして挑戦します。


 

 

人を惹きつける何かは何か



たとえば 施設とか作品 あるいは人間でもみんな同じです。人を惹きつけるものと そうでないものがあります。

好き嫌いではなく 嫌いな人でもどこか惹かれるものを感じることはあります。

それが何なのかはよくわかりませんんが たぶん自分と共鳴する何かを相手に感じるからに違いありません。

その共鳴する何かの中で 共通しているのは 真面目さとか高い志というような精神的なことは大きいと感じています。

苦労は人をつくるといわれますが 自分が楽をすることだけを求めて成功した人に惹かれることはありません。志が高く真面目な人の苦労は 苦労の質が違っていて 惹きつけエキスが生まれているようです。

家族や社員を幸せにしたい あるいは社会のお役に立ちたいという志を秘めた行動の場が その人にとてぼ成長の道場になっています。

その道場でみっちり鍛えられた人に備わるのが 人を惹きつけるエキスです。

考えて 実行して 失敗したらやり直して 妥協しないで志の実現を目指す。

「独生独死 独去独来」というお釈迦様のことばは 「道は いつでも自分が出発点」と読んでいます。




 

 

夢に日付を



「夢に日付を」という話を聞いたことがあります。

ファミリーレストランの「和民」を創業された渡辺美樹さんのお話だったと記憶しています。

聞いたとき 「なるほどなあ」と思いました。

そのことについて今どう思っているかというと 高齢になってきたらそうしない方がいいのではないかという考えです。

残された時間が少ないのだから 日付を入れて実行するのが賢明ではないかという考え方もあります。

一方では やり直すというロスも考えるとスローペースで確実に実行することがふさわしいという考え方があります。

高齢者が自覚していなければならないことは まとまった業績のようなものではなく その生き方ではないかと思っています。

それは 「いつまでも夢を忘れなかった生き方」であり 「ゆとりを大切にした生き方」を残すことだと思っています。

「日付のない夢をもつ」人生も悪くないと思います。

暦を持たない「林住期」という考えもありますからね。


 

 

理想と実現手段



昨日に続けて 夢を持つことについて書きます。

というのは 昨日書いたあとで あらためて自分の夢について考えながら整理をしてみたのです。

理想を抱くとか夢を持つことはとても大事であることはもちろんですが その実現となると しっかり整理して着手することになります。

先日『実行力』という橋下徹さんの本を読んで 再確認しました。

評論家で終わるなら理想だけでもいいが 実業にするなら周到な計画と準備が不可欠だというお話でした。

何を「あらためて」考えて見直したかというと その実現手段です。

夢の実現には 多くの場合夢の実現を実行する人が必要です。

思い通りの協力者が見つからなければ 人に合わせ いきなり高みを目指すのではなく夢を少し修正して続けなければならないことに気づいたのです。

いきなり頂上には登れません。まずは目前の高みを目指すことにします。