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アーカイブ:2019年
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5月

過疎四苦八苦

スリッパ



寺務所に上がられるお客さんのために 玄関にスリッパを準備します。

玄関でお迎えするときは 「どうぞ スリッパをお履き下さい」といいますから 全員スリッパをお履きになります。

ところが一旦スリッパを脱いで座敷に入るときとか お茶室に入り その部屋を出られるときはスリッパを履かずに出られる人が多いのです。

おそらく日頃の生活の中で スリッパを履く習慣がないからであろうと推測します。

そうしないからといって 不作法とか無教養な人というわけではありません。生活習慣はいろいろな場面で顔を出すということを話したいのです。

食事をいただくときに手を合わせること。

脱いだ靴を揃えることや 室内では帽子を脱ぐこと。

あるいは教科書や本などを床に置かないことや またがないこともそうです。

目に見えないものへの敬意から生まれた 美しい生活習慣であると思っています。


 

 

同じ話をしないように



出来るだけ同じ話をしないように注意しているつもりです。

その一番の理由は 「その話はもう聞いたよ」といわれたり 「話したことを忘れるようになっている」と思われるのがすこしこわいからです。

そしてもう一つ 「そんなことはとっくに知ってるよ」と思われる話はしないようにしたいという思いもあります。

でもそんな思いは止めようと思い始めています。

すでに自分が話したのではないかと思う話でも そんなにたびたび話すことはないと気づいたからです。

複数回話すことはあっても 一人の人に対しては せいぜい10回までだろうと思ったからです。

また聞く人がすでに知っているのではないかという話も 以外にご存じないという場面が結構多いからです。

一人ひとりが暮らす環境や興味は違っています。

その違いが話題の違いになるのですから 自分の環境の中で興味があった話は意外にに新鮮な話題になるようです。



 

 

塩金平糖



「塩金平糖」を食べました。

瀬戸内海の直島で購入したといいます。讃岐三白という名物になっている 塩入の金平糖です。

金平糖は甘いお菓子と思っていたのですが 塩入の金平糖は大人好みになっているようです。

食べながら 塩を入れることで新しい甘みが出ていることを知りました。

甘みとは逆なものを加えることによってなぜそうなるのか。ことばで説明しようと思ったのですが うまくいえません。

人間関係や仕事でも 同じ性格の人ばかり集まるとか 賛成賛成者ばかりでなく 違った考えや性格を持った人が集まった方がいいという説明が出来ると思ったのです。

違った意見を大切にしようとしたら 別な次元の意見に出会うことがあるので そのことと同じだろうと思いました。


 

 

今日は経営を学ぶ日です



今日一日 経営の勉強をします。第一線で活躍している人たちと 経営のことを話し合います。

経営の話というと専門的な話のように聞こえますが そうではありません。

お互いの人生のことを語り合おうとしているのです。

どのような仕事をしている人も なぜその仕事をしているのかという目的があります。

そのことを話し合っていると 仕事に向き合っている自分の姿勢に気づくことが出来ます。

いただいている人生に気づくこと いただいている仕事に気づくという勉強会です。

私も 自分とは違う生き方をしている若い人たちから学ばせていただこうと思います。

もちろんそして私の生き方も 気づきのヒントになるはずですから お話しする予定です。


 

 

互酬性ということばに出会いました



新聞を読んでいると 「互酬性」という文字が目に入りました。

一瞬誤植ではないかと思ったのです。今まで見ることがなかった文字だったのでそう思ってしまったのです。

早速ネットで調べたら「互恵性」ともいって お互いが助けあうことをいうことばでした。

「自己責任で生きる」とか「大きな企業に就職するために いい学校へ」とかいった風潮とは逆に 自分の身の丈で生きて 困ったときは他人にすがればいい。

あるいは帳尻は必ず合うのだから 今を大事に生きたらいいという社会の考え方なのだそうです。

その「互酬性」を日常生活で考えると たとえば「家族葬」のとき。「お返しが出来ないから家族葬で営みます」といわれたとき どうするかという例を考えて見ました。

「お返しを望むことはありませんが お世話になった故人へお別れの礼をさせてください」と 純粋な思いで「家族葬破り」を実行することは ご遺族の中にはなかった社会のあり方を伝えることになりはしないかと思うのです。

そしてそれが次の時代の 支え合う社会のタネ播きになるように思うのです。

「家族葬で」 という意思表示があったとき そうお話しして見ようと思います。


 

 

話題づくりの名人のような人



トランプさんが日本にやってきました。

「令和になって最初の国賓」と自称したり 3日間だけ乗る自動車を飛行機で運ぶなど ずいぶん賑やかにやってこられました。

どんな話し合いをされるのか肝心なことはよくわかりませんが 余暇という多くの時間の過ごし方だけは詳細に聞こえてきます。

安倍首相と楽しむゴルフは16ホールまで。変則プレイは送迎のヘリコプターの都合とか。

大相撲の観戦。これはご婦人へのサービスもあるのではと想像させてもらいます。

「この旅行の費用はいかほどなのか」ということが気になるのは 庶民の疑問ですがどうでしょうか。

しかし必ず誰かが調べて発表してくれるでしょうから 期待をしないで待っておきましょう。

島根県にいても話題の波をかぶるのですから 身近にいる人たちは大変な話題をもらわれるのではないかと思うのです。

おおくの人々の心に響くような話題であって欲しいと思います。



 

 

開放された気分になっています



高齢になった人の口から「あと何年生きられるか」とか「終活の準備中」といったことばは切れ目なく出ているように感じます。

今のところそれについて意見をいったり 批判したりするつもりはありません。

私自身はどうかといえば 高齢になって「次第に楽になってきた」と実感しています。

元気いっぱいに働いていたころに比べて 時間の意味が変わった来ています。

現役として第一線で働くころには 時間は自分が持っているモノのように感じていたのです。ところが今では 自分が時間に抱えられていると感じるようになったのです。

もっと違う表現をしたら「生かされている」とか「泳がされている」と感じ始めているのです。

仏教では 時間は「いつまでも生かすよ」と約束しているといいます。

そのことを感じ始めたら 人間の私が終わることを受け止めながら 今を大事に生きることに気づき とても楽になったのです。


 

 

雑草という生き方



プロ野球選手の上原投手が現役を引退しました。

イチロー選手に続き 今シーズンになって二人目の引退発表です。

上原選手にしてもイチロー選手にしても 自分の考えを信じて仕事に打ち込んだ人という印象があり 感動をいただいたことに感謝しています。

このたびの上原選手には 「雑草魂」という表現でその姿が伝えられていました。

プロ野球に入団する前は 野球選手としてエリートの道を歩いていた人ではなく 紆余曲折を体験しながら花を開かせた人として語られているのです。

世間は 特別な評価をされないで生きている人を雑草とみなしているようですが 一人ひとりの人生はみなすばらしいと思います。

自分の身の丈で 境遇の中で 泣き笑いを繰り返しながら 自分の花を開かせています。

「唯我独尊」で生きています。



 

 

決め手になったのは 熱意?



「働きたい」といって中途採用の面接に来られた人がありました。さっそく4人で面接させていただきました。

その方の履歴は 高校時代に自分の進む道を決め その道を真っ直ぐに生きているような人でした。 

面接を終えた後 「明日お返事をします」といって了解をいただきお帰りいただきました。

「この人なら一緒に働いていただける」と話し合って採用を決め お返事することにしていました。

お返事する当日の朝 先方から「別の事業所で働くことになりましたので」という断りの電話が入りました。

理由は「その事業所の熱意です」といわれたそうでした。

いろいろなことに 「二又をかける」ということがあります。給与などの待遇を比較して 自分に合ったというか有利な方を選ぶという場合のことです。

面接時には待遇の話をしなかったので 比較することは出来なかったはずなので いわゆる「二又」ではないと思います。

すでに面接を受けていた事業所への返事を決めていないまま当方の面接に来られ その事業所からの催促と好条件の提示ががあったと思われます。

本人にとっては今後の生活を決めることですから 二又でも三つ叉をかけるのは当然ですが 求人難の時代にはこのような割り切れない体験しをなければなりません。



 

 

10年おきの行事と20年おきの行事



「ホーランエンヤ」というお祭りが終わりました。

10年おきに行われる行事で 好天に恵まれて大勢の人々が楽しんでおられました。

「なぜ10年おきのお祭りなんだろう」という疑問がありました。

20年ごとの行事としては 神宮の柱の取り替えとか大社の建て替えがあります。

仏教の本山寺院では およそ10年ごとに何かの大法要が営まれます。

そこにどのような考えがあったのか 知りたかったのです。

どうやらその間隔には 行事にかかる経費のことがあるようです。

そしてもう一つ 伝統文化の維持や寺社建築の技術を伝承するという目的があり これが重要視されているのです。

開催するだけの経費を捻出する期間と 伝承が途切れない年月の限界の二つから 10年とか20年という間隔が設けられているのだと気づきました。

さらに それを考えた人々の智慧におどろきました。