HOME
»
過疎四苦八苦
»
アーカイブ:2019年

過疎四苦八苦

苦瓜



我が家でニガウリを収穫しました。

テラスの前にプランターを置き 2本の苗を植えて育てたものです。

どうやら今年は14個収穫できそうです。

早速2本サラダにしていただきました。

そのあとは佃煮にしようと家内はいっています。

食べる喜びはもちろんですが 育てる歓びもいいものです。

ふたつのよろこびが重なることを「歓喜」というのでしょう。


 

 

事実の欠片を集める



「史実の欠片を集めてストーリーをつくる」。

司馬遼太郎さんが 「歴史小説家の視点」というお話の中で語られたことばです。

歴史小説家ではありませんが いま私も同じようなことを行っています。

通夜は 「追憶と気づきの場」という位置づけにして明確になった作業です。

故人が残された事実は 多くの人にとって周知のことがたくさんありますが その背景にあったものは 人間のサガとか時代や風土という環境です。

その事実とか真実に合わせて 個人を追憶することによって 新しい自分との繋がりがあったことに気づくことが出来ます。

ウソ話をするのではなく 事実を見直すことによって 新しい故人と再会していただこうと思い 事実の欠片を集めます。


 

 

裏付けをお話しする



いままでとは違う何かをするとき 自分がやろうとしていることについて 学問的とか科学的な裏付けは必要に思います。

お葬式とかお墓参りを大切にしようとしている人のことを 心理と仏教の教えから きちんと評価したいと思い始めたからです。

他力という宗旨の原理からいえば お葬式や熱心なお墓参りの結果で 故人が救われまた自分も救われるのではないという理解があります。

その事についての裏付けは 専門家の学問によって無数に繰り返されてきました。

ところがそれらはあまりにも専門的で 多くの人々には理解できないものであり 信仰の姿に近づくことが難しいのです。

家族葬で葬送を終えようとする思い お墓参りで供養をしているという思いを認めることから始めたいと思っています。

いまその裏付けはなにひとつありませんが 見えない繋がりが捨てられないという人間の行動の意味を 宗教心として評価してお話ししようと考えています。

 

 

196人のリーダー



世界には196の国があって 国ごとのリーダーの考えと発言によって国民は動きます。

国民全員が動かなくても 過激な国民の行動は その国を代表するようになって 国同士とか国内の衝突がしばしば起こっています。

その途中で 人命が失われることもありとても悲しいことです。

このような状況は 一人のリーダーの考えと発言によって生じているという見方が出来ると思うのですが そう思うとリーダーの責任はとても重いものです。

もちろんリーダーひとりがワンマンとして発言しているわけではありません。周囲の賛同者や ときには反対者の存在なども意識しながらのことになりますから複雑です。

ところが人々は リーダー一人に注目しがちです。

仏教は「縁起」ということばの通り すべてのモノは 縁によって生じ変化すると教えてくれます。

すべてのリーダーの発言も例外ではないと考えています。

何ごとについても 自分の思い自分の国の意見を通そうとすると かならず反対の思いや意見が鮮明になり 対立が生まれます。

家庭内には家族ごとに思いがあり 世界には196の国ごとに思いがあるのです。

問題解決の道は その思いを本音で話し合い ひとつずつ理解しあうこと以外にはないのです。


 

 

ポツンと一軒家



このことは以前にも書いたように思いますが また書きたくなったので書くことにします。

現状から逃げないで すべてを味方にする生き方を考えていて書きたくなりました。

「ポツンと一軒家」という放送のことです。

レポーターとカメラマンが 人里離れた山中にある家を訪ね 住人にインタビューするだけの番組です。

ときどき見ているのですが 「面白い企画だなあ」と感心しながら見ています。

今まで見てきた放送では どの家も辺鄙な場所にあり 暮らすには大変不便だろうと思えました。

ところがインタビューでお話しされる様子からは 不足とか不自由はほとんど感じられないのです。

意固地になっているとか強がっている様子もなく 明るく話しておられる内容に おもしろさを感じるのです。

おもしろさが生まれている要因は 環境を生かし切る暮らし方にあります。

それに合わせて 足るを知る智慧をもっておられます。

その中で夢を実現しながら暮らそうとしておられる様子が 放送を見る人に不思議な刺激を与えているのです。

 

 

リフォーム 模様替え 見直し 読み替え・・・



過疎地での暮らしとか 取りのこされ感がある宗教のことを考えていると 今ほどおもしろい時代はないと思います。

目標としては 過疎地を賑やかにすることではありません。

お寺に人々がたくさん集まることを考えているのでもありません。

過疎地で暮らす不便さが増えると それがおもしろさを減らすことになるとは思えないのです。

宗教心が薄れているように思えますが 宗教の大切さが変わったわけではありません。

そういう今をおもしろくするのは 目標を 見直しとか読み替え あるいはリフォームや模様替えにしてみることです。

たとえば 世間はお葬式を家族葬に模様替えしました。

それに合わせ 葬祭に関わる会館や花屋さんは すでにリフォームや見直しを始めています。

行事を演じる僧侶だって 行事の読み替えや セリフの見直しだって必要になります。まだ誰もやっていないことを始めるのです。

そんなことをあれこれ考えていると 今ほどおもしろい時代はないといいたくなります。


 

 

いわみの実発売



地元の高級赤ナシ「いわみの実」が発売になりました。

家内がさっそく購入して帰りましたので 初物をいただきます。

幸水という品種のナシですが 袋に「テロワールを感じるように育てた」という説明がついていました。

そこで困ってしまいました。というのは 「テロワール」ということばは初めて聞くことばで 意味が分からなかったからです。

類推することもできず さっそくネットで調べました。

フランス語だそうで ワインの品質評価の重要な要素になるブドウ畑の場所などで使用されることばと紹介してありました。

いわみの実の園主は 石見の気候のなかで 主に石見の籾殻を肥料にし無農薬でナシを育てています。

その結果で実をつけた「いわみの実」は 品種が同じ幸水であっても 一味違う味を育てようという意識です。

石見地方の赤ナシではなく 旭町山中「横山農園」の赤ナシという ピンポイントの味を育てる意欲の表示なのです。

志をもって精進している園主を 今年も応援します。


 

 

行事の模様替え



お葬式の前夜に 「通夜」という行事を営みます。

お葬式が営まれるのは日中であることが多いので 仕事を休めない人がおられます。

その人たちは 前夜に行われる通夜にお参りしてお葬式は欠礼されることになります。

そうしてお世話になった故人とかご家族への礼を尽くされるのです。

私が記憶している通夜は 昔は「夜伽」という表現をしていました。

遺体のそばで悲しんでおられる遺族に寄り添い 夜通し語り合っておられたことからつけられた呼び名でしょう。

語り合いの内容の中心がどのようなものかわかりませんが ほぼ故人の思い出であったろうと思われます。

その語らいの中に お坊さんが加わられたことや仏法の話が出ることはまれであったとも思えます。

すでに今日では 「通夜」という名前はあっても 遺体は仏間に置き家族は自室で寝る状態も始まっているのではないかと思われます。

形式で終える通夜をやめ 故人の思い出を語りながら その中から「お世話になった」あるいは「気づかせていただいた」という人生の見直し時間として模様替えしたいと思います。

それを「再会の一夜」と読み替てもいいと考えています。 


 

 

メロン、マンゴー、スイカ、巨峰、パイナップルとバナナ



お盆を中心にした 数日間に食べた果物の種類です。

トマトもいただきましたが ずいぶんいろいろな果物を食べました。

この季節 子供の頃の果物といえば 地元で栽培されているスイカかウリに限られていました。

やがてメロンや巨峰も栽培されるようになって お盆の時期の果物が豊富になりました。

お土産としていただく果物の種類も増えて いろいろいただけるようになりました。

いろいろな果物を食べたのですが 私にはスイカが一番似合っていると感じます。

香りや糖度あるいは高級感では メロンとかパイナップルには及びませんが 水分と涼感では他の果物の比ではありません。

真っ赤に熟れた実に塩を振りかけ 果汁が落ちるのをものともせずにかぶりつくのは夏の醍醐味です。


 

 

空き家の掃除



お参りした先に 日頃は空き家になっているお宅が二軒ありました。

働き場所がある都会におられるご家族が お墓参りなどで年に一二度お帰りになるのです。

その家から「お参りに来てほしい」というお知らせがあって お参りさせていただきました。

そのとき 留守の間 家の中はどうなっているのだろうかと気になりましたが 黴臭さも消え掃除はしっかりできていると感じました。

きっと 皆さんで大掃除やメンテナンスをされたのでしょう。

建具の立て付けやトイレのことなど 日頃の管理ができないところでは支障があるようですが 何とか数日間の暮らしには不自由なさそうでした。

それにしても日頃空き家になっているお宅の前に車が止まり 戸が開けられている様子は 一瞬の賑わいであってもうれしものでした。