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過疎四苦八苦
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アーカイブ:2019年

過疎四苦八苦

シイタケ名人



3年前から友人と二人で シイタケ栽培を始めているお坊さんの話を聞きました。

教員を定年になって始めた仕事だそうですが ご自身の性格に合っているようで楽しそうでした。

畑の準備や原木つくりから始め 美味しいシイタケの栽培を目指しているというのです。

目標は大分県でシイタケ栽培の名人がつくっているシイタケの味だとか。

その人を探し当て 敬意をこめて「シイタケ爺さんと呼び 門前払いを体験しながら教えを請うたといいます。

通いつめて少し口をきいていただけるようになったとき いただいた屑シイタケと自分たちのシイタケと食べ比べ あまりにも自分たちのものがまずいのに驚いたといいます。

「シイタケが嫌い」という人たちであっても 必ず美味しいといってくれるものを目指すのだとロマンを語ってくれました。

自分の性格に合った仕事がロマンを生み ロマンが仕事を楽しくしてくれるようです。


 

 

「偈」は爆発のうた



ちょっと専門的な話ですが 昨日お参りに行って「正信偈」という聖典を読んでいるとき ひらめいたことです。

経典の中には「偈」という箇所がいくつも出てきます。4字とか5字あるいは7文字のことばが並んでいる箇所です。

「偈」というのは「うた」という意味で 感動を簡潔に伝えようとするときに挿入されているように感じます。

正信偈というのは 親鸞というお坊さんがおつくりになった「偈」です。

声に出して読みながら「まさしく うただ!」 「感動を爆発させてつくられた うただ!」と実感しました。

そう思って経典の中の「偈」のすべてが 感動が爆発してうたになっていると理解すると その場の様子が現前に現れるようで 経典への親しみが生まれます。

 

 

それでも死に方研究所



「若い人は死に方研究所といわれても関心はないと思うよ」といわれて ネーミングを考えていました。

今までお寺で研修を受けた働き盛りの人たちの感想文を改めて読んでみたら 「死んだら地獄に行くそうです」という感想文が多いことに気づきました。

働き盛りの人に 「ピンピンコロリ」というような死に方を考えることがないことは当然です。

ところが「なぜ生きているの?」「どう生きようとしているの?」「究極の人生目標はなに?」と立ち止まりをおすすめしていると 「死に方」というフレーズが姿を変えて出ているように気づきました。

そこで「それでも死に方研究所」なんだと再確認したのです。

そのようなプロセスを感じていただけるネーミングとして 「それでも死に方研究所」という名前も悪くないぞと思い始めています。 


 

 

思い出せない



石見智翠館高校吹奏楽の定期演奏会が終わり 客席内の通路を通りながら顔見知りの人と会釈していました。

その中に 親しそうに会釈していただきながら どなただったのか思い出せないお方が何人かおられました。

もちろん 知っていますよという顔をして会釈はしましたが 申し訳ないという気分が少し残りました。

「あなたなんか知りませんよ」とか「あなたから会釈される筋はありませんが」という顔をするわけにはいかないので 苦し紛れに会釈はするのですが 気づかれなかったのだろうかと気にはなります。

こんなことが増えるようになると 人前に出ることが億劫になるのではないかと思ってみたのですが 老化防止の訓練と思って続けるつもりです。


 

 

手を下す人



火葬場での点火スイッチは ほぼ喪主一人で押しておられます。

ときには二人のときもありますが 三人ということは見かけませんでした。

一昨日の火葬では三人が前に出てスイッチボタンを押されたのです。

お亡くなりになったお母さんの介護をされた喪主であるお嫁さんが お一人でボタンを押されるのだろうと思っていました。

ところが故人の長女さん 次男のお嫁さんも加わって女性三人が押されたのです。

なぜこの三人なのか推理したのですがそれがよくわかりません。

長女さんの嫁ぎ先は同じ市内なので晩年まで出入りはあったと思います。

ところが次男さんのお住まいは大阪なので お嫁さんの出入りが多かったとは思えないのです。

あるいは存命中の子供ということであれば 次男さんが加わられるはずです。それとも次男さんは遺族代表でご挨拶されたから自分のお嫁さんの出番をつくられたのでしょうか。

まあどうでもいいことなのですが 「なぜこの三人の組み合わせなの?」と疑問がわいたのです。


 

 

非常識



常識を外したり 常識を破ると「非常識」といわれます。

常識内で生きることは気楽ですが 変化がない生活になり面白さに欠けます。また成長とか進歩がないので いつかは常識を破ろうとする人が出現します。

お寺には仏像がありますが 仏像をつくったことはとんでもない非常識なことです。

仏教は形がない教えそのものですから それを形にするなんてあきらかに非常識です。

ところがその非常識のお陰で 仏像がつくられ仏教がひろがることになり続くようになりました。

タコを初めて食べた人だって 常識破りでした。空腹に耐えかねて食べたのかもわかりませんが あの奇妙な生き物を口にしたのです。

常識破りを試みる人たちを 変人とかバカ者とかいわず そのときは新人類と思って許していたと思います。

破ろうとしている常識は 試食品のようなものです。

すすめる熱心さや興味に誘われて口にしてみて 興味がわけば自分も始めたらいいと思うのです。

その時代や地域では非常識であっても 時代や地域が変わると 非常識でなくなるものはたくさんあるはずです。


 

 

トイレの使用講習会



お預かりしているお寺のトイレを新設していただきました。

本堂の一部を改修して 寒い日や雨風の日にも楽に行けることを考えたのです。

今では珍しくない ウオッシュレットがついたトイレです。

初めて使う日には行列ができていたようです。

私が用足しに行ったとき トイレの中におやつに出していたオカキの小包装紙が入れてありました。

またトイレ用のスリッパがトイレを出た廊下に脱いでありました。

慣れるまでは 当分このようなことがおこりそうです。

お参りくださる人たちに 最新のトイレ生活を身につけていただく機会提供も お寺の役目と考えましょう。


 

 

中古仏壇店「光善寺」



中古仏壇店「光善寺」は繁盛するかも。

跡継ぎがなく家を売るや壊す人から 家終いの話がポツポツあるのでそう思うのです。

そのときの相談で かならずあるのがお仏壇の処分の相談。

ご本尊は持ち帰ることになるのですが お仏壇は業者に処分をお願いするか 業者が拒否したら自分で処分することになります。

一見して まだきれいで使えそうなお仏壇は どなたかにご紹介したいと思ってお寺にお預かりしていました。

そのお仏壇を災害や家の改築などされたお宅に提案すると 喜んで迎えてくださることがあるのです。

すでに5台紹介しました。光善寺仏壇店は 一切無料です。もちろん紹介料も無料です。

こんな仏壇店が繁盛する現象を うれしいと思うのかそれともさみしいことに思うのか 複雑です。


 

 

看板を掲げたら



「死に方」研究所の看板を掲げたばっかりに 1時間30分間電話を受けることになりました。

一昨日の夕食時に知らないお方から電話がありました。13日付の新聞を読んでご意見をお聞きしたいといわれたのです。

その新聞のコラムに「死に方研究所を再開します」と書いていたのが目に留まったのです。

明日の午後1時以降にお電話をお受けするという約束をしていたので 昨日その電話を受けたのです。

長い長い身の上話でした。お聞きするだけの時間が続き 90分過ぎて5分くらい私の提案をして終わりました。

ご自身が出された結論は 「私には被害者意識ばかりで 感謝の心がない」ということでした。

受話器から出ることばはすべてそういった内容でしたから 「私もそう思います」とお伝えしたら 「どうしたらいいのでしょうか」とアドバイスを求められたのです。

「泣きわめくことです」とお答えしたら 「そんなことばを聞くのは初めてです そうしてみます」といって終わりました。

長い長い電話でした。そして「どうぞ そちらから電話をお切りください」といわれ驚きました。


 

 

骨にも名前が?



離婚して婿養子先から実家に戻られていた人がおられました。

元の姓に戻っておられたのですが 8年前にお亡くなりになっておられたのです。

お葬式は禅宗系のお寺でお世話になって 禅宗の戒名をいただかれていたようです。

その当時 父のお骨を自分たちのお墓に納めたいと息子さんが申し出られたそうですが断られたとのこと。

そして8年後 やがて無人になるらしい父方の家から お骨を引き取ってもらえないかといわれたことで質問がありました。

父の姓は自分たち家族の姓ではない。
法名も違う種類のものがつけられている。

同じお墓に入れるためにには 姓も法名も自分たちと同じようにしなければ変ではないかと申されたのです。

受け入れるご家族は 自分たちのお墓に迎えることに異存はないそうなので 何も変えないで納めていいですよといいました。