お参りが終わったらお花見に行こうと計画しています。10年くらい前は、わざわざお花見に出かけようという気分はなかったのですが、近年は毎年どこかに出かけるようになりました。
高齢になって、今年が見納めになるかもわからないという思いがそうさせるのかも知れません。
今年は昼間にお参りがあるのであまり遠方には行けませんが、それでも思い切って千光寺公園まで出かけようと思っています。
日本桜100選のスポットなので、昼間の花見は混雑が予想されます。家内が「夜桜もいいよ」といったので、夜桜見物を第一の楽しみに出かけることにしました。
夜桜見物の経験は一度だけあります。大阪で働いていた30歳代のころ、幼かった子供たちを連れて大阪城公園の夜桜見物に行ったことがあります。
急に思いついて職場から電話をして、家内が大急ぎであり合わせのもで詰めたお弁当をもって出かけたのです。
そのときの記憶は、お弁当にサバの塩焼きがあったことと「寒かった」という二つです。不思議にも、肝心な花の様子は思い出しません。
花見とは、花を口実に非日常の思い出をつくることなのでしょう。
お寺での一日研修を受けていただいたお方が書かれたレポートを読ませていただきました。
その中に、「研修前までは、宗教信仰ということに関して、無関心さらにいうと嫌悪感をもっている私でしたが、その考えが変わりました。単に宗教を信仰しようということでなく、その教えを勉強することがよりよい人生を過ごすために必要であり、自分本位で生きてきた自分を素直に省みることが出来ました」という数行がありました。
どのようなお話しに反応してお気持ちが変わったのか思い当たりませんが、少なくともお寺で過ごした数時間といろいろな話の中で何かを感じてくださったのです。
仏法伝道の糸口を探している私にとっては、元気をいただくありがたいことばでした。
いままで自分が必要としていなかった宗教の話が、これからの自分の人生に必要であったということを知ってくださったのです。
充実した人生を望んでいる人にとって、「自己を習う」話は何かヒントになると思います。悩んでいる人に寄り添いながら、必ず明るい世界に導くという仏陀の約束も立ち直りのきっかけにになると思います。
信念を持って謙虚にお話しをすることが大切であることを学んでいます。
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知り合いの方が、「初物です」といって「浜ぼうふう」をくださいました。浜ぼうふうは、海辺で採取する山菜で、香と歯ごたえを楽しみます。
この季節になると、地域の人たちの中には、「そろそろぼうふう掘りに出てみようか」といって浜辺に出かける人が何人かおられるのです。
私も子どものころ何度か出かけたことがありますが、春とはいえ冷たい海風が吹く砂浜で、小さな芽をのぞかせたぼうふうを見つけ掘り出す作業は好きでなければ出来ないものです。
近年は土の畑で栽培が出来るようになったらしく、やがて山菜とか珍味とはいえなくなりそうです。
そういえばワサビにしてもタラの芽にしても、商品化のために栽培されるようになり、探し出して採取する楽しみはなくなっています。山菜の味は、気持ちと時間のゆとりがあって始めて味わえるものだと思っていましたが変わりました。
先日お寺にお見えになって研修をしてくださった企業の幹部の方々の感想文が届きました。
皆さんがとても真剣に研修してくださったことが書かれていて、準備したことが役に立ってうれしく思いました。
今回で4回目の研修でしたが、毎回継続してお話ししていることは「どう生きるか」ということです。
それを考えるために、墓地に立つことや地獄の絵の解説などをするのですが、まだまだ身近なところに教材がたくさんあることに気づきました。
『雑草の暮らし』などの絵本を描かれた甲斐伸枝さんのように、そこらに生えている草の様子を観察しているといのちが観察できるのです。
限られた時間と環境の中で懸命に生きようとしている草を見て、生きていることは当たり前としている人間が、自分はなぜ生きるのかと自分に問いかける。
そしていまここで生きていることの重さに気づいたとき、自分はどう生きるかに気づいていただけると思います。
かって日本にやってこられた沢山の宣教師さんたちのことを考えています。
なぜそんなことを考え始めているかというと、お坊さんの役目も宣教師さんと同じ、布教とか伝道を行っているからです。そしてその心構えとか手段について知りたかったのです。
ことばをはじめ文化が違う異国にやってきて布教をしようという使命感や行動力において、現代では当時と同じものを求めることは出来ません。
さらにそれを支えたモティベ-ションあったはずで、それは一体何だったろうと気になっているのです。
宗教による世界制覇という思いがあったかも知れません。異教との勢力争いに勝利するという動機も否定できません。
もちろん自分の信仰こそが唯一のすくいの道であるという信念に裏付けられていることは否定できませんが、私には信仰心のどこに布教伝道を駆り立てるエネルギーが秘められているかわからないのです。
使命感に支えられていたことはもちろんですが、生計の心配をすることなく、自分の裁量で新天地を開拓するベンチャーのようなモチベーションに支えられていた面もあると思います。
過疎とともに先行きが見えなくなっている仏法伝道の突破口を開くには、このような視点から考えることも必要と思っています。
生きている時間が長くなると、その分だけ気づきも増えます。
私が気づきといっているのは、外にある状況から、自分の生き方や人間の姿の真実を学んでいる意識の状態です。
特別に意識していなくても、いろいろな出会いで気づかせてくれるものです。気づきの連鎖といってもいいと思いますが、蓄積した過去の気づきによって新しい気づきが生まれて来ます。
たとえ気づいたものが些細なことであっても、新しい自分や人生に気づくという歓びは格別です。全身に歓びが満ちるような思いがするのです。
人は気持ちの奥底で、そのような歓びを求めて生きているのではないかと思います。
外見の社会生活では、富とか権力や名誉、あるいは目標の達成や安定を求めているように見えますが、その過程で何度も気づきの歓びを体験しているはずです。
その体験が蓄積されるようになると、歓びが増え、人生は豊かになっていくものです。
人生には、富の蓄積を目標にする人生もあり気づきの蓄積を願う人生などいろいろありますが、自分は何を願っているのか自問してみることも大切ではないかと思います。
公文書改ざんというとんでもない出来事が行われ、その真相究明が行われています。27日にはついにキーパーソンの一人の証人喚問が行われることに決定しました。
その決定が為されてから27日までの間、喚問された人はどのような心境でおられるのだろうかと推察したくなります。
自分の発言のつじつま合わせを考えておられるのだろうか、あるいは発言してしまったことを後悔して善後策を考えておられるのか。
それとも刑事訴追を受けることも覚悟して、すべてを話そうと覚悟を決められたのだろうか。
当然ながら家族とか友人の心配や助言、あるいは発言次第で利害関係が生じる人などの出入りや脅しもあるのではないだろうか。
いずれにせよ地獄にあるという「針のむしろ」に座っているような苦しい時間を過ごしておられると思ってみるのです。
何ごとも成るようになるといって、グッスリ眠っておられるとしたらそれでいいのですが、そうはできないだろうと思うのです。
お寺の本堂にある地獄の絵の解説をしながら、「自分の行動の責任は自分が取らなければなりません」ということばに熱がこもってしまいました。
勇気を出して事実を証言した文科省の高官が退任後も尾行調査されていたという現実を知ると、事実を証言することがいかに大変なことなのか。
あらためて政界と官界の闇の深さを感じているのです。
選抜高校野球大会が始まりました。数日間、ひたむきなプレーで数々のドラマが生まれることでしょう。
試合後のインタビューで、「普段通りのプレーをしてくれました」という監督さんの談話を聞きました。
「普段通りのプレー」という意味は、緊張することなく練習で繰り返したことを実行出来たという意味に解釈しています。
観衆や応援団がいない地方のグランドでプレーしていた選手たちが、いきなり数十倍もの観衆の中でプレーをするのですが、一体どのようにしたら普段通りのプレーが出来るのだろうかと不思議に思うのです。
試合前の選手たちにどのような声かけをしたらそうなるのかも推測してみました。選手や監督さんが、「楽しんでこい」とか「楽しもう」と伝えるという話を聞いたことがありますが、そんなひとことで高ぶる気持ちは落ち着かないと思うからです。
反復練習によって身体に覚え込ませた動作をいつもと同じように再現するためには、いつもと同じような精神状態の反復練習も不可欠だと思います。集中力の反復練習が不可欠になります。
普段通りとは、練習中の集中度までも普段通りであったということです。
ただいま婚活中という男性とお話しする機会がありました。
お話を聞いていると、とても明るく健全な人生観をもっているように感じたのですが、なぜか結婚できていのです。
今までお付きあいした女性は何人もおられたそうですが、それでも結婚できなかったというのです。
既婚の男女が何人もおられるところで、「どうしたら結婚できるのでしょうか」と真剣な質問を出されて盛り上がりました。
いろいろなアドバイスや意見が出ているうちに気づいたことですが、今までつきあってきた人のどなたにも、「結婚しよう」と話したことは一度もなかったそうなのです。
「どの人に対してもやさしくお付き合いをしながら、なぜプロポーズしなかったのか」という話になり、先輩方のアドバイスが語られました。
「直観」とか「勢い」で決めなさいというという意見。「一人を決めることは残りの人を捨てること」といった、決断が必要という意見もありました。
その場の結論は結婚するためには決断が不可欠ということでしたが、誰かのちょっとした後押しが必要かも知れません。
いずれにせよ、未来は自分でつくるという強い気持ちをもって欲しいと思いました。
「克己心」ということばは何度も聞いていました。
夏休みになるとお寺の本堂に近所の小学生の子供たちを集め、一泊とか二泊の研修会のような行事をしていたころのことです。
あるお寺の住職さんは、たしか中学校の校長先生をしておられたと聞いていましたが、その研修会が始まるときのあいさつは毎年「克己心」でした。自分に勝ちなさいという意味のお話をしておられたのです。
ふとそのことばを思い出して、あらためて「自分に勝つ」ということの難しさを思ったのです。
それは現在までの自分を捨てることでもあるからです。捨てなければ新しい自分になることが出来ません。また進歩もないわけです。
スポーツ選手が自己の記録に挑戦するにしても、一旦今までのやり方を捨てて出直さなければ進化がないのです。
そんなふうに考えてみると、自分の習慣を変えることはもちろんですが、克己心は今の自分を捨てるということばでもあります。
それが出来ていない自分が、そんな難しいことを小学生や中学生に話していたかと気づいて恥ずかしく思っています。