一年の締めくくりとして今年やって来たことを整理して見ようと思いつきました。
このような整理をいままでやったことはないのですが、新しいことに挑戦を始めたこともあるので、足もとを確認するような感じで書いています。
まず第一に自分の目標をことばにすることが出来ました。目標は、ご縁がある人に「仏法を教わりました」と評価してもらうことです。
「やさしく つよく おもしろく」生きようと思ってくださる人が出てくださることを目標にしたのです。
次にホームページを新しくしたことです。私はネット寺院を造ろうというつもりはありません。いろいろな人との関わり方を探すのに、ホームページをつくるプロセスが役に立つと思っているわけです。
「お寺の便り」や「封筒」、「年賀状」などのイメージを変えました。お寺を「気づき研究所」にしようと思っているのです。
そして、この地で「おもしろく」生きておられるお方を探し始めました。いっしょに生活の中にある仏法を学ぼうと思っているのです。
たくさんご縁をいただきありがとうございました。
3歳過ぎた孫が、買ったばかりの土鍋で炊いたご飯をたくさん食べました。
もともとご飯が好きな子どもですが、あまりにも勢いよくたくさん食べるのできっと土鍋のご飯が美味しかったのだろうという話しになりました。
私たち大人は五感を使ってものを食べています。目で見て、匂いを嗅いで、あるいは食材の由来や調理中の音を聞いて味覚を刺激しています。
そのようにして美味しさを確かめているはずですが、土鍋で炊いたご飯を食べた子どもが五感を使っていたのかどうか疑問です。
土鍋を使って炊いたことも知らず、炊きあがったご飯の色が違っていたわけではないのです。子どもはただ舌の感覚だけで美味しさを感じていたと思うのです。
そんなことを考えると、美味しさは子どもに判定させるのが一番ではないかと思うのです。
「ミシュランの星は子どもにつけてもらう」、考えただけでも楽しくなります。
お皿や盛り付け方、食材の組み合わせなどの面倒なことは大人が考えることで、美味しさの極みは舌の感覚で判断するものだと思うのです。
私の周囲に、「あっという間に一年が過ぎました」とか「一年が過ぎるのが早く感じられます」という人が何人かおられます。
そしてそういわれる方は高齢者の方が多いようです。子どもや若い人からはあまり聞くことがないので、人生の残り時間が早く過ぎていくと感じておられる高齢者に多いのかなと思います。
「人生の残り時間」を意識しておられるからですが、残り時間の使い方は意識しておられないからだと思います。
その時間を何かおもしろいことに熱中して過ごしたら、「早く明日になればいい」と思ったり「この続きはまた明日」と、明日が待ち遠しく時間が遅く感じられるのではないでしょうか。
私はどうかといえば、「今日はここまで。身体を休めてこの楽しみの続きはまた明日」と明日のことを考えるのです。
そのように暮らし始めてからは、一年の終わりになって、「あっという間に一年がたった」という思いはあまりありません。
「一年が早く過ぎる」と感じておられる方とどこが違うのだろうと考えるのですがよくわかりません。
しいていえば、私の人生は必ず終わるのだという自覚が日常生活にしみ込んでいて、限りある大切な時間だから自分も楽しく周囲も楽しんでもらえることに使かおうと思っているからです。
昨日の午後、飛行機から降りて携帯のメールを開いたら、「案内専用」というメールが数本きていました。
さっそく開いてみると、ドコモからという書き出しで、「あなたのメールが一等になり9700万円当選しました」というご案内でした。
一目見たとき、9700円当たったのだと読んで少しうれしく思ったのですが、よく見ると万円という文字が見えてこんどは大変驚きました。
その後、メールの発信者のドコモさんが、私がメールを読んだことを確認したらしく次々と新しいお知らせメールを送ってくるようになりました。
3回目か4回目のメールを開いたとき、受け取り手続きのために必要な条件が送られてきました。さらに受け取りの締め切りは28日で、その日を過ぎたら一切が無効だというお知らせも来ました。
その後を追っかけるように、人生の幸運を掴み損なって、いままでの人生で満足するのかという問いかけまでくるようになったのです。
その段階から、「オレオレ詐欺に引っ掛かる人の心理状態の学習」という気分になって、もう少し奥まで探求してみようかとも思い始めたのです。
しかし結局は、「お金は汗水垂らしていただくものだからね」という家内のひとことで、探求を中止しました。
少しばかり緊張感を感じた数時間でした。
ロクシタンのお店から「ピローミスト」という商品が消えていました。就寝時に2、3度枕元にスプレーして、やさしい香りの中で眠りにつく香水でした。
店員さんの説明では、生産中止になったらしいのです。愛用者はあったと思うのですがなぜでしょうか。
化粧品のような高額品ではなく、手頃な値段でオシャレな商品だと感じていたのに残念です。
よく売れるもの、収益が出るものばかりを揃えたお店を目指しておられるのかどうかわかりませんが、お客さま志向を忘れた結果ではないかと心配です。
同じころ、女性のおしゃれな下着メーカーのトリンプが苦戦しているというニュースを読みました。ユニクロなどにおされ、売り上げが落ち込んでいるようなのです。
この事実もお客さま志向を見失った現象に思えます。オシャレと満足感のためには少し高額でもいいと思っていたお客さまが、それがお手頃な価格で手に入ることに気づかれたのです。
ロクシタンには、香りで暮らしを豊にするというコンセプトを再点検して欲しいと思っているのです。
ロサンゼルスの繁華街は一斉にクリスマス休暇でした。食料品を売るスーパーマーケット以外はすべてのお店がお休みです。
私のようなクリスチャンでない人にとっては、不便な一日になります。こんなとき営業してよろこばせてくれるのは、日本人や中国人など異国の
経営者です。
そのような経営者が集まる地区があるというので出かけました。
ネットのガイドで見たら通称「リトル大阪」。サンタモニカの一角にある通りに、日本や韓国の食べ物屋さんが軒を連ねているのです。
ラーメン屋とか寿司屋さんといった定番以外に、広島のお好み焼きとかおなじみの丸亀製麺のうどん屋などがありましたが。なかでも五百円くらいで食べられるうどん屋さんには行列ができていました。
広大なロサンゼルスの端っこをかすめて走りながら、多様な民族、極端な貧富の差を知らされました。アメリカンドリームということばも、銃販売規制ができない理由もわかったように思いました。
ハリウッド郊外のショッピングモールはクリスマスセールで賑わっていました。日本のような混雑場所はあまり多くは見かけませんでしたが、レストランには行列ができていました。
どこの国も、何かのお祝い行事のときは、プレゼントやご馳走をしてお祝いをすることを納得しました。
「ハレ」と「ケ」ということばの意味がいまひとつよくわかりませんが、日ごろの無事をお祝いして一切のものに感謝する特別な日を「ハレ」というのでしょう。
そうであれば、私は「ケ」の日ばかりです。そして、「ケ」の日を楽しくしたいと思っているのです。毎日、他者のために何か役に立つことが出来ないか、自分のことに気づくことがあっただろうかと振り返ることが楽しいのです。
そういう意味で、特別な賑わいの日も、私にとってはご馳走をいただく以外はいつもの一日と変わっていません。
若中の展示で有名な州立美術館に行きましたが、なぜか一点の展示がなく、日本館という展示館になっていました。
週末の繁華街はクリスマスセール一色で、人混みの中を迷子にならぬよう家族にくっついてうろうろと歩きました。
その途中、日本から「おばあさんがお亡くなりになった」という報せが葬儀やさんから入りました。
受け取った時間はアメリカのお昼前。その時間は日本の早朝にあたり、大急ぎで時差を計算して連絡を取りました。
アメリカへの旅行中にお葬式の連絡を受けるのは今回が4度目です。年に一度、一週間の旅行ですが、なぜかお葬式と重なることが多いように感じます。
留守番役の家族には迷惑をかけています。
マリオネット劇場を見学しました。
1960年代から続いている劇場ということで、浅草の寄席のような雰囲気でした。
無造作に置かれたパイプ椅子に掛けて、身近に人形のダンスを鑑賞しました。
入館と同時に、「スペース」と「もようしもの」など、お寺に重なるものがあるような気がして、時差ぼけの頭で考えていました。
「やさしく つよく おもしろく」をモットーに暮らそうと思い始めてからいろいろな気づきがあります。
お寺の法座で、暦を使うことを思いつきました。
それというのも、本願寺の出版社からこのたび出版された「日めくり」が「やさしい」ことばであると感じたからです。
「やさしい」ということばの意味はいろいろで、「人には優しく」とか、「やさしくつながろう」というやさしさもあれば、「易しいことばづかい」というやさしさもあります。
この「日めくり」には、ことばづかいが易しいという意味でのやさしさがあると感じたからです。
どのような用語で表現しても、仏法が伝えてくださっている意味は深いものです。
その深みを、現代の暮らしの中に伝わることばで切りとることは難しいことですが、それに挑戦する表現がたくさんあると感じたからです。
いろいろ角度を変えてことばの意味を考えることが出来る暦です。