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急にマンガとか絵本のおもしろさを感じるようになりました。
本堂内に地獄の絵を展示しているのですが、ひそかに関心が向けられている気配なのです。
先日、『君たちは、どう生きるのか』というマンガ本を購入しました。私が生まれる前に出版されていた本が漫画化されたのです。
さっそく目を通していると、「オッ、これは仏教に通じる本だ!』と思ったのです。
お釈迦さまの教えが、現代化されてマンガになっているように思えたのです。
大急ぎで読み終え、もしそうであれば、みなさんにお勧めしたいと思うのです。
どのような媒体からにしても、真実に気づくことが出来たらうれしいのです。
「年に一度であっても、こうして我が家に来てくださることがうれしい」というお方のことばを聞きいてハッと気づきました。
過疎、高齢化の地域では、他人と話す機会がめっきり減るのです。
話さなくても、「ひと中」に群れるとか交わるという状態が減るのです。
過疎でお隣が遠くなります。高齢化で足腰が衰え、移動がおっくうにあるいは不自由になります。
そのような状況で、自分のところに来てくださる方があることがうれしいといわれたのです。
今までと変わらない訪問であっても、周囲の状況が変わったことでうれしさが変わったのです。
訪問する側からいえばそのお方に「時間を贈る」ことでもありますが、受け取る側で感じることは「一人ではない」という大切なものだったのです。
「店内禁煙」、「おタバコはご遠慮ください」と張り紙をしている場所が増えてきました。
愛煙者にとってはつらいサインですが、タバコを吸わない人にとってはうれしい張り紙でしょう。
ところがこのサインは寺院や教会のような礼拝施設で見かけることは少ないように思います。「なぜだろう」と気づき推測していることは、その施設を利用される方々のマナーを信頼されているのです。
また礼拝施設全体へうやまう心があるからではないかと気づいたのです。
高級ホテルのロビーとか高級といわれるレストラン、あるいは美術館とか劇場でも見かけることが少ないのは、同じようにわきまえられていると見えます。
あらためてサインを出すか、それとも出さないか。その施設を利用されている人々の雰囲気がサインになるといいと思うのです。
そしてその雰囲気の理解に異なる方がおられたら、教えてあげたらいいと思うのです。
「失敗は宝、失敗は財産」という話を聞くことはたくさんありました。私自身もたびたびそう話してきました。
ふと振り返ってみたら、自分がしでかした失敗の体験を積極的に記憶にとどめようと思ったことはありませんでした。
大きな失敗がなかったわけではありません。数え切れないほどの失敗をしてきているのですが、財産になっているとはいい切れないと思ったのです。
あらためてそのことを考えて気づいたことは、自分がしでかした失敗の原因究明をおろそかにしていたのです。
自分で自分の失敗の原因を究明することは、自分を裁くことです。甘さいっぱいの原因究明は、財産にならないということでした。
他人にかけた迷惑の重さを知らされるとか、金銭的に大きな痛手を受けるというショックがなければ、失敗を教訓にすることが出来ないということでした。
世の中には、失敗を無駄にしないで自分の夢を実現された方がたくさんいらっしゃいます。
あらためてその人たちの姿勢を考えると、自分に対して厳しい姿勢を貫かれた人であったと思います。
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主立った片付けを一通り終え、2日間の行事が終わりました。
スタッフのみなさんには大変多くのお手伝いをいただきました。
過疎高齢化そして宗教離れ流れの中で、仏法と出会う場をどのように支え、あるいはどのように整理したらいいか。
空き時間を見てはお手伝いの人たちに話題を投げかけました。
出会いの場を自分たちで創造するのだという意識になっていただくことから始まると考えていますので、まずはその意識になっていただかなければなりません。
そのことは江戸時代から定着している檀家制度などの見直しをはじめとする、住職と門信徒さんの意識改革なのです。
その覚悟が問われているのです。
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「先生を選ぶ」なんて、とんでもない思い上がりと失礼な行為です。
とはいっても、お寺においでいただいてお説教をしてくださるご導師さんは一人選ぶことになります。
そのときどのようなお方にお願いをするかというと、自分自身がお聞かせいただきたいお話しが聞けそうなお方に声をかけています。
そしてお参りされるお方に聞いていただきたいお話をしてくださるお方をお招きします。
そう考えると、そのお寺の住職が共感するご導師さんがお見えになっているわけです。それでいいのですが、いろいろなお寺にお参りして、そのお寺のご住職さんが共感されるお話しを聞くことも大切なことなのでしょう。
今日は報恩講の二日目です。しずかにお話しをお聞かせいただく予定です。
気温は低めですが好天の予報が出ています。うれしいことです。
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今日と明日、報恩講をお勤めします。
報恩講というのは、いのちを輝かす道をつけてくださった親鸞聖人とお出会いする日です。
浄土真宗の近くのお寺で、一年に一回だけ準備していただく特別な日です。
自分のいのちが輝いているかどうか振り返ってみてください。
「人生はおもしろいよ」「生きるということはうれしいことだ」と思う人生を生きて欲しいと願いながら開催します。
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今日一日、延べ26人のお方に明日の報恩講の準備をしていただきました。
寒い日でした。
ほんとうにありがとうございました。
朝8時から11時前まで、午後1時から5時まで隅々まできれいにしていただきました。また荘厳やおときの準備も終わり、明日のスタートを待つばかりになりました。
このようなお手伝いは、すべて奉仕でお願いをしていますがいつまで続くか心配です。
たとえ休日であっても、仕事や家庭、あるいは地域の行事を優先して、お寺のお手伝いが後回しになる傾向があります。まして平日なら、仕事を休んで奉仕してくださることは無理かもわかりません。
現代社会では、宗教への関わり順がずいぶん低下してきたように感じているのです。
そのような環境の中で、現代の人々に宗教への関わりの大切さに気づいていただく困難さと責任の重さを感じます。
お寺をお預かりするも私がどのように行動するか、その評価が奉仕に参加してくださる人の増減のように思えてきました。
24日、25日の二日間、お寺にとっての年間最大行事「報恩講」がつとまります。
その準備の追い上げに入っています。
2ヶ月も前からボチボチと準備を始め、その都度気づいたことを準備してきました。
一月前には、お手伝いのお願いも終えました。外注していたものも届き、お配りする印刷物も終わりました。
境内の樹木の刈り込みや草取りも、数日間かかって終わりました。接待の料理に使う野菜や調味料、お茶やお菓子も揃いました。
あとは明日の大掃除と、ご仏前の荘厳だけになったと思うのですが、はたして漏れはないか心配です。
準備はどれほど周到に行ったつもりでも何か手落ちがあるようです。突然の出来事もあります。
そんな心配を抱えながら毎年の行事が始まるときを迎えます。
その人が幼いときどのような境遇であったのか、一生を終えられてから気づくことがたくさんあります。
戦中戦後の厳しい生活を体験された人は、人の情けがわかる人が多いように思います。そして他人様への思いに深いものがあるように見えます。
助け合って生きた時代がそうさせたのではないかと思うのです。あるいは家族や周囲の環境も無縁ではなかったと思います。
宗教に対する敬虔な姿勢や、他人の悪口をまったく口にされない様子などを見ていると、特にそんな思いが浮かびます。
宗教や道徳心ということばでは伝えにくい躾は、毛穴から入ってくるものでしょう。
少子化、核家族化という社会になっていますので、目の前で直接子供たちに伝える機会は減りました。
それでも大人同士が助け合いの活動を不断に実践することは心がけなければならないと思います。